徒然の書

思い付くままを徒然に

稚拙な日本語翻訳

 

読むたびに思うことであるが、学術書の日本語翻訳の稚拙さにはほとほと愛想が尽きる。

一つの文節で主語が何かわからないような、あるいは主語に類するものが二つも三つも出てくる様な、不可解な日本語になるものも多く見かける。

句読点で句切り続け、全体としてみると何が言いたいのか理解に苦しむような文章が実に多い。

しかしながら・・・、すなわち・・・、であるところの・・・など区切るべきところでない箇所で区切り、その前後て全く違った文章になっていたりする。

遥か彼方のその分野の草分けの様な、大御所などといわれるような学者が翻訳したものは言葉使いの合間合間に方言まがいの言葉が随所にあって非常に読みにくい。

また、ひとつの書物を数人の、多い時には七、八人で分担して翻訳している書物さえある。

読んでいくうちに、読みやすい文章であったものが、項目が変わったとたん訳の分からない稚拙な文章になったりして非常に戸惑うことがある。

ある研究グループで翻訳しているものにそのようなものがあり、中には学生が担当する部分さえあるらしい。

その分野の専門家ではあっても、外国語に外国人にそん色ないほどに精通しているわけではない。

そんなものが翻訳を担当するのだから、完全には翻訳できない、己が理解できるだけの程度の語学力で、その分野の専門家であるからとの理由だけで翻訳を引き受けるのだから翻訳には十分な神経を使う必要がある。

外国語にはその言葉独特の言い回しがあるから、それをそのまま直訳されたのでは読む者にとっては、とても読みずら日本語になる。

専門分野の翻訳は専門の研究者でなければとても無理ではあるが、己では理解していてもそれを正確に日本語に翻訳するには専門知識のほかに日本語としての翻訳の知識が必要である。

翻訳した後で、この翻訳者は己が翻訳した文章を読み返し、己以外の日本人が読んだ時日本語として通用するか否か考えたことがあるのかと思うことが数限りなくある。

書物として出版する以上一般の人々が読んで日本語として、すんなりと受け入れられるような文章になぜ翻訳できないのかと思うのが常である。

翻訳を引き受ける以上、翻訳の技術の習得が必要であろう。

己が解ればいいというだけでは、人に読ませるような翻訳は無理なのである。

さらに、いつも思うのは出版者として翻訳されたものを読んで、その文章が日本語として、頭を悩ませながら読まなければならないような、稚拙な翻訳であるかどうか検討しているのだろうか、ということである。

特に哲学書など、著者の考えを理解することに頭を使う前に、翻訳文を理解可能な日本語に再翻訳することに頭を悩ませることがほとんどである。

当然日本語としての読み違え、理解違いが起こりうる可能性がある。

同じ原本を他社が翻訳しているときそれをも購入することが度々で、不経済この上もない。

そんな場合、まったく文章が違うのはどうしたわけであろうか。

どうして一般人が読んで読みやすい日本語に翻訳できないのかと思うことが数限りなくある。

己では解っているつもりでも、翻訳した文章が他者にとってはとても理解しがたい日本語になっていれば、翻訳の価値はないということ、翻訳したものをすべて読み返してみて、日本語として違和感がないかどうか、自問してみる必要が、翻訳者にはある。

流石にいわゆる文学作品にはそのようなことは起こりえない様ではあるが、専門分野の研究者は翻訳の専門家ではないということを、厳に自覚して翻訳する必要がある。

初めの数ページを読んで、投げ出したくなるような翻訳文、ごつごつと、区切りの前後で脈絡の取れなくなるような翻訳文はお断りである。