徒然の書

思い付くままを徒然に

論語に思う


大學、中庸、孟子と並ぶ四書の筆頭としての古典であることは殆どの人が承知している。
この論語も奈良、平安の頃の遣唐使によって、もたらされたものであるが、その当時、朝廷、公家どもによって研鑽されたという話は聞いたことがない。
知る人は知っていたのだろうが、論語が盛んに勉学の主流として武家の子弟などによって、研鑽されたのは江戸の頃と思っていた。
寺小屋や、幕府の学校、昌平黌などで、子供たちがこの論語素読する姿は、様々なものによって紹介されているのを見てきた。
現今では、論語を読む人も少なくはなっているのだろうが戦前に教育を受けた人にとっては、必読の書であって、教養人の座右の書となっていると言われることもある。
道徳規範の書としての趣があり、今更あらためて道徳規範をなどと考える人も結構敬遠する理由としているのだろう。
論語の学而第一と書くと堅苦しいが・・・・
 
子の曰わく、学びて時にこれを習う・・・・・で始まる論語
この言葉は日本人なら、一度は耳にしたことがるだろう。
だが論語を改めて読んでみようとはなかなか思わない。
その一つに、内容は如何でも現在の注釈書と言うのか、日本語訳の本のあり方が大きく係わっているような気がする。
原文に読み下し文を付けて、日本語訳を加えるだけだは、如何にも無味乾燥。
古の、論語教育はただの素読だけではなかったろう。
 
論語の注釈書は何冊か読んだが、やはりあまり面白くはない。
読めば読んだだけ、何らか啓蒙された気分にはなるが、小説のように一気に読了しようという気にはなかなかならない。
原文があって、読み下し文が書かれて、僅かに注釈があるものもある。
内容は別にして、読む者にとっては無味乾燥と言っていい。
ところが、偶然に出会ったこの論語、読んで見ると論語にこんな風に書かれた本があったのかと思うほど、一気に読み続ける事の出来るものに出合った。
翻訳時の考えたかの新しさと言うのか、或は一つひとつの項目ごとに注釈者のコメントが入っている。
訳文一つにしても新鮮な気分になる様なのがある。
 
学びて時にこれを習う・・・・・
多くの訳は・・・学んでは適当な時期のおさらいをする。
おさらいは適当な時期であっては余り意味がない。
これは時を適当な時期と解釈しているためであるが、孔子の時代の教科書の、詩経書経などでは、時れ邁く(これゆく)と言うように、時は具体的な意味を持たない、助字として用いられていた。
時は、これ、とか、ここに、とか呼んで、適当な時期のではなく、その後で復習するという意味にとりたい。と言っている。
まさに復習はそうあるべきで、教わったものを適当な時期に復習するでは効果がないのが勉強であろう。
 
朋あり遠方より来る・・・・等も遠方は現代語の遠方ではなく、遠国の意味にとるとしても、この時代では見慣れない用法である、という。
孔子の知人や同僚たちがそろってやって来て、孔子の学園の行事に参列したと解釈する。
等と解釈にも新しいものが見えるし、註訳が実に多い。
 
更にもう一つ加えると・・・・これまで読んだものには・・・・・
第八 泰伯篇の一説を加えると・・・・
子曰、篤信好学、守死善道、・・・・・というのがある。
訳すと・・・子のたまわく、篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす、と読んで・・・・・訳は、深く信じて学問を好み、命がけで道を磨く。
と解釈され、それであとは何の説明もない。
 
だが、守死善道、この一句は解釈が難解で、今まで様々に試みられてきたが人を納得させるものが無かったという。
普通は死を以て道を守ると解せられているという。
もしそうなら、この句は死守善道でなければならないのでこの説は成立しない、と言う。
上の句が篤信好学が、篤く信じて、学を好み、と読めるとすると・・・・これに対応することで、死に至るまで守りて、道を善くす。と読む方がいいという。
 
これまでの注釈日本語訳を読んでいると全く違った論語が入ってきて、思わず読み進んでしまう。
この様な注釈や、コメントが入っていると理解も随分と深まるし読んだ印象も全く違ってくる。
現代において原文、日本語訳とほんの僅かな注だけでは、余程の人でなければ論語などに興を示す人は少なかろう。
 
原文など付け加えられても、現今の高校あたりでも国語に漢文などと言うものを取入れている学校も少ない、いや無いのではないだろうか。
戦前などではまだまだ漢文に親しむ教育が行われており、中国の古典の抜粋が教材として取入れられていた。
 
論語孔子が執筆したわけではないが、論語の最後は・・・・・
孔子曰わく、命を知らざれば、以て君子と為すこと無きなり、礼を知らざれば以て立つこと無きなり、言を知らざれば、以て人を知ること無きなり。
 
即ち、理想の人間つまり君子の究極の目的は天命を理解することである。
これは誠に神秘的で、理性的な孔子神秘主義に支えられていると言っていのであろう。とこの本は閉じている。
 
論語の刊末の解説でこの様に記している。
 
孔子論語を古代の聖人賢者である釈迦やソクラテスなどとくらべて、いちばんに感ぜられるのは、その言葉が一見非常に平凡で、ちっとも非凡なところがないことである。このすこしも非凡でなく、一見平凡きわまる孔子の言葉が、どうしてこんなに世に伝わり、不朽となったのだろうか。
秀才の子貢に尋ねられた。、「君子とはどういう人のことですか」と
たずねられた孔子は、先ずその言を行う、而して後にこれに従う、と答えた。主張したいことは、まずそれを実行してから後に主張することだということである。
まず実行してから主張するのであるから、その発言はどうしても慎重にならざるをえないであろう。
論語のなかにあらわれる孔子のこの控えめな言動、それは一見平凡きわまりないように見えるが、こういうことを考え合わせると、この平凡きわまることこそ、じつは非凡、最高の非凡さなのである。
 
孔子が尊んだ徳と云うのは、一間素朴で、自然そうなっている様だが、自分を甘やかしてそうなっているのではなく何時も自己の言行にに対する厳しい反省が加えられているからだと書かれている。
一見平凡な孔子の言葉が何故二千五百年に亘って東アジアの人々に、愛読され続けてきたか、これで少しは解けたのではなかろうか。と


 
参考文献
論語                                   貝塚茂樹 訳注                  中公文庫
論語                                   金谷 治 訳注                  岩波文庫
 


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