徒然の書

思い付くままを徒然に

日本語って難しいんだなあ~


 
翻訳ものを読むたびに、こんなものを読まされる、敵わないなあ~って思う事が結構多い。
だが、漢文のものはそれがほとんどない。
多くは西洋の学術的なもの。
それは翻訳者が、翻訳の専門家じゃなくて、研究者に翻訳させるからだろうと思っている。
ヘーゲルを研究者じゃなく、翻訳の専門家に依頼したらどうなるだろうと思う事が良くある。
研究者は人に読ませるほど語学に熟達しているとは思えない。
原書を翻訳しながら読んでも、自分なりに十分理解できるのだろうと思う。
だが人に読ませるとなると話は違ってくる。
翻訳物の書物を買うときはよほど注意しないといざ読み始めてとても不愉快な思いをしなければならない。
小説なら、面白くないとその場で打ち切って捨てればいいのだが、学術書の場合はそうはいかない。
学術書の場合は翻訳の専門家が訳すというより、その部門に携わっている研究者が翻訳することがほとんどである。
またそうしなければ専門用語などの扱いで不都合が出る事が極めて多い。
ところが、研究者と言うのは必ずしも翻訳が上手いと言う訳ではない。
と言うより余りうまくない、極言すれば下手な部類に入るっだろう。
実際に研究しているのだから、おのれでは意味をつかんではいるのだろうが、その翻訳文を一般の読者が読んでは何を言っているのか皆目わからない翻訳が多い。
特に哲学などの翻訳物は元々が訳の解らないことを言っているのだから、下手な翻訳にぶつかるとその翻訳を読む者にとって判るように再翻訳する事から始めなければならない。
最近、手にした翻訳物のまえがきに、次のような文が載っていた。
この本の反訳は、今までいくつもあって、それぞれ苦心の仕事だが、語学的にいささか不十分な点もあり、とくに、その訳文はむつかしすぎて、一般の人々には近寄りにくいうらみがあった。
何時も民衆の立場でものを言っていた著者はそれでは喜ばないだろう。と
それで共同研究をしている人々が集まって、この名著の共同訳を試み、判り易い訳本をこしらえようとしたという。
それでおそらく十数人が集まって分担して、翻訳を試みたのであろうが、そのすべてが、翻訳に秀でた人ばかりではなかったようである。
この本の部分によっては、すんなりと内に飛び込んでくる訳文もあるが、この訳者、己で何を言ってるのか判ってるのかね、などと思う訳文にも随分とぶつかった。
どちらかと言うと哲学に属するこの本は哲学研究者としてはプロであっても、翻訳のプロではない。
学術書などの訳文を読むと、多くは直訳に近く、さらに恐らく外国語独特の言い回しを直訳した様な訳文では、著者の言わんとすることを理解することは難しい。
直訳で済むのなら、何も研究者に反訳を任せる必要はない。
研究者に翻訳を依頼するのは、原書の持つ意味を正確に理解して、一般人にも通用する反訳書をつくる事にあると思う。
専門家に反訳を依頼するのは原書の意味するところを正確に日本語に翻訳する必要があるからで、それを能々吟味しなければ意味を為さない不可解な日本語に翻訳を綴られたのではわざわざ研究者に依頼する意味がない。
いや、その翻訳を日本語と言うのも語弊がある程、日本人が読むとさらに翻訳しなければ意味を執りかねない。
例えば漢文を読むとき、書き下し文と言うのがある。
おおよその意味が分かったとしても、現代語としては通用しない。
哲学がかった書物の反訳はまさにそれ。
いざ翻訳本を手に入れていざ読もうとしても、とても読めたしろものではないことがすぐに分かる。
内容が難しいのだけでなく、そもそも何が書い てあるか分からないのだ。
近頃の学術書の翻訳読むとき、これ日本語の書として文意が通じますかと問い質したいもので溢れている。
  
今よんでいる中の一冊、この翻訳本が難しい原因の一つが日本の翻訳書だ。
英訳ならまだ分かるように訳してあるのだろう。
ところが、日本語の訳はどれもこれもひどい直訳で、見たこともな いような言葉遣いがつぎつぎに出してきて、わけの分からないものにしてしまっている。
この著者の特徴なのか、だらだらと長い文を句読点の羅列で綴られて、最後の文節まで来て、あれ主語は何だって、最初に戻って改めて日本語に反訳しなければ、一般の読者にとっては何を言っているのかさっぱりわからない。
著書自体が哲学に類する書であれば理解することは殆ど不可能にちかい。
翻訳者にとってみれば、己の専門分野であるから、翻訳しながら意味をつかむことは容易であるのは当然のことである。
外国語の独特の表現法をそのまま直訳されたのでは、一般の読者にとっては堪ったものではない。
高校の頃、英文解釈の練習のために、サマセットモームの短編集を使って英文解釈の練習をしていた頃のことを思い出す。
ごつごつとした日本語に翻訳して、おのれで読み返しても呆れるほど下手な翻訳であったと思う。
訳している最中では、己では分かっているつもりに為っているということである。
だが、短編集から長編小説に移る頃には随分と読みやすい日本語になったものだと己で感心するくらいになったのだが、その長編小説、月と六ペンスの翻訳本を最近読んで、随分と驚いたものである。
単語にing を付けて何々しつつあるという進行形の表現をするが、そのまましつつあると翻訳しているのに驚いたのである。
日本語では進行形を表現するのに、しつつあるという言葉を使わないでも十分に表現できるし、普段は進行形を表現するのに、しつつあるという表現はあまりしないように思う。
どんな判訳本でも、原文を読んでいないので、どの様な単語が使われていたのか判らないが、同じ原作者の本を二人が翻訳して、違った出版社から出されていたのだが、一人は青銅と訳し、もう一人は真鍮と訳していたのを見て、実に驚いたものである。
英単語で青銅はBronze、真鍮は黄銅ともいいbrassだから、明らかにどちらかが誤訳したのだろうと思っている。
翻訳の専門家が翻訳したものと、学術書の研究者の訳したものを比べると日本語としての文章の完成度には、雲泥の差が認められるであろうと思う。
哲学系の研究者が、あるいは学術書の翻訳に携わるとき、こんな日本語があるだろうかと、訳文を再検討してほしいものである。
哲学自体、一般の者には難しいのだから、外国語独特の言い回しをそのまま直訳されたのでは、読むものが改めて翻訳文を日本語として通用する訳文に翻訳し直さなければ,原著の著者の真意をつかむことは不可能に近い。
日本人の哲学者の著書であっても、それを理解することは難しいのだから、翻訳を再翻訳する必要が加わっては、とても著者の真意は掴むことは不可能である。
 
 
 
 
 
 
 
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