徒然の書

思い付くままを徒然に

美しいということ

人は春には桜を見、秋には紅葉を見て美しいという。

近くは隣家の花壇に植えられた小さな花々、庭の片隅に結実した万両の赤い実を見て美しいという。

ただ姿が整ったもは美しく、歪に歪んだものは美しいとは言わない。

人はこの姿を美しいとは言わない。

だがこの歪な姿のなかにも美しさはある。

 

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現代において人は何を美しいと考えているのだろうか。

美は古来、真、善、美というように称されたように、人間が追求すべき、もっとも重要な価値の一つと考えられてきた。

美はとりわけ善と結び付けて考えられてきた。

古くは、プラトンなどでは美にして善なるものという理想を言い、これは人生にとって役に立つもの目的に適ったものが善であるというのである。

と同時に美であると考えるのであり、直接感覚を通さない美、精神的美をも超越美として、そのものの実在を言い、

すべて美なるものはこれへの分有であるとした。

これを中世キリスト教が受継ぎ,神が美そのものであると考え,真,善,美が神の特性を表わすものとした。

近世になると美はもっぱら我々の感性に対応するものとして、美と善を切り離して考える傾向が強くなる。

カントなどによれば美はただ感性の認識において得られるものであるが、美の快感は存在の無関心性において成り立つという。

ただ人が気に入るという、その満足として、見いだされるものである。

だが美の判断においては普遍性と客観性が要求されるといっていい。

美は感性的な認識の分野として考えられるのである。

美は普遍的客観性が必要であるとはいっても、人の感性はさまざまであり美にすべて客観性や普遍性を求めることは出来なかろう。

古代人と近代人の、ものの考え方に、感覚に大きな違いがあるように、人の感性もさまざまである。

人の心から出た善行を見て美しいという。

 

 

 

 

 

 

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