徒然の書

思い付くままを徒然に

修己治人~己を修して人を治める~


 
戦前、どこの小学校にも二宮尊徳銅像が建っていた。
薪を背負って、本を片手に、寸暇を惜しんで、本を読んでいたのだろう。
明治に出版された日本人による英文の本が何冊かある。
新渡戸の武士道、岡倉天心茶の本、そして内村鑑三の代表的日本人である。
この代表的日本人の中には西郷隆盛上杉鷹山に続いて二宮尊徳が挙げられている。
小学校に銅像が建つぐらいだから、随分と国に貢献したのだろう。
その銅像で読んでいる本が何を書いた本か知る人は少ない。
それは朱子朱子学の教本として取り上げた、大学であると言われている。
儒教四書五経の四書、則ち大学、中庸、論語孟子の一つである。
大学はもともと礼記の一遍であったものを朱子が中庸と共に取り出して論語孟子の上に置いたのが四書である。
儒教孔子が初めて考え出したという人も居るが、孔子には己の考え方というか思想というか、それを体系的にまとめる能力は無かった様な気がする。
昔から伝わった生活様式やあるいは社会通念、あるいはものの考え方といったものを断片的にその場その場に応じて披瀝したに過ぎない。
孟子や、荀子のように己の思想を論理体系的に構築するほどの能力は持ち合わせて居なかったと思っている。
孔子が数十年にもわたって全国に就職運動を行ったが、いずれの王も受け入れなかったのは、一つには老子が彼に会ったときにいったと言われるような、傲慢さが感じられるからであったろう。それに加うるに思想を体系的に構築す能力がないこともその一つであった様な気がする。
それと、己の考え方を披瀝するについて、今でいうTPOを考えずに、己の考え方に拘ったために、国を亡ぼし兼ねない事態まで引き起こしている。
その儒教漢の武帝の代になって、国教の地位を得るが、このときの儒教の経典は五経であったという。
その後、儒教も訓詁の学として、その思想的活力が失われていくことになる。
それ以後宋代になって朱子によって復活することになるが、その朱子学の経典は我が国でも能く聞き慣れた四書五経といわれるもので、五経の上に四書、則ち大学、中庸、論語、模試を置いた。
儒教も長い歴史の中で多くの変容を遂げてはいるが、その中核部分は代わっていないという。ではそれは何か。それが分からないと儒教とは何かということが分からないと言うことになる。
いま、その儒教の核心は修己治人と言う言葉に要約される。
修己とは読んで字の如く、己則ち個人の修養を意味する。いわゆる昔流にいえば修身という事だろう。
戦前、修身などというものが、小学生の頃教え込まれるが、これとはちょっと趣を異にする。あの頃の修身などというものは、朕惟フニ我カ皇祖皇宗、で始まるあの馬鹿馬鹿しい教育勅語など、ここで言う修身などとはまるで異質なものであった。
あの頃は、どこにも礼拝殿と言うものが供えられて居て、そこに勅語の巻物が収められており、毎週月曜日講堂に集められて、この教育勅語の朗読を聞かされる退屈な時間、今から考えると全く馬鹿げた儀式ではあった。
我々子供たちが、この勅語の内容から抜粋してよく使った言葉に、もともとこの国は、おれの祖先が作ったものなんだ。汝臣民飢えて死ね。御名御璽。であるが何かあるとこの言葉が口をついて出てくるのです。
たかだか、十歳前後の子供たちが常ならず聞かされる言葉の端々を覚えて使っていたんですね。
 
 
閑話休題、でも修身とかあるいは修養とかいうのは人から強要されて、行うものではなく、己自身を磨くための努力なのだということ。人間という生き物は社会的に信用されるには、少なくともそのような修養なくしてはあり得ないということである。
儒教でいう修己には何が必要なのか。
人間の修行は能力と人格の両面について修養する必要がある。
儒教では人格面に力点が置かれているが、煎じ詰めれば徳を身につけるということであろう。一口に徳とはいっても徳とは何かということになるが、儒教では五倫五常をを指すようである。ただ人格高潔とはいっても、能力が備わっていないと徳の発揮のしようが無い。五倫とは父子信あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、五常とは仁、義、礼、知、信の五つを差すという。
 
修己治人の第二の柱は治人を突き詰めていくと政治ということになる。
四書の大学は儒教の政治についての主張を実に要領よくまとめられた本と言える。
社会の指導的立場の人間は、天下国家の経営にあたることだが、そのための前提として修己があると言っていい。
 
世にほとんどの企業は新入社員に対して社員教育を実施しているという。
それは少なくともその企業の要求する人材に育成する必要を感じるからであろう。
人格面、能力面いずれも企業の将来を背負う人間としての素質を植え込む必要を感じているからであろう。
 
先にも述べたように、修己治人の第二の柱は治人を突き詰めると政治ということになるのだが、政治は社会の指導的立場の人間として、天下国家の経営にあたるにあたって、その資質を十分に確かめる必要があることもまた事実である。
だが、しかし選挙の立候補の段階でも、当選した後の段階でも、その人間が国家を動かす指導的立場の人間として、必要な教育が行われたことは未だかってない。
今までの歴史を振り返った見ると、人格の欠損した輩も随分と存在したように思われる。現代の参政権の欠陥はどんぶりの中に優れた人物がいない場合でも、行使せざるを得ないところにある。
四書の大学は儒教の政治についての主張を実に要領よくまとめられた本と言える。
社会の指導的立場の人間は、天下国家の経営にあたることだが、そのための前提として修己があると言っていい。
果たしてその指導的立場の上った人間たちが能力と人格の両面について、己を磨く修行をしたことがあるのだろうか。懐を肥やす能力ばかりを磨かれても、国の民は困るのである。
修身とは何なのか、大学によれば心を正しくし、意を誠にすることであるという。
意とは心の発したもの、誠とは自分で自分を欺かないことであると言う。
則ち心の有り様をだれに恥じることもない、正しくすることだという。そのために必要なのが格物致知なのだという。
この格物致知という言葉自体も説が分かれており難しいらしいので、またの機会に研究してみたいと思うが、格物を物の理をきわめ尽すこと、そして致知をおのれの知を極めることと考えて、あらゆる事物の理を知り尽くすことであるとした、考え方がわかりやすいように思う。
 
我が国において社員教育と同じように、政治屋あるいは高級官僚に大学を教課とした教育を行う必要を感じるのは我だけではなかろうと思うのであるが、如何。
 
 
 
 
参考文献
大学中庸          守屋洋                                PHP文庫
大学                           宇野哲人訳注                          講談社学術文庫
中庸                           宇野哲人訳注                          講談社学術文庫
 
 
 
 

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