徒然の書

思い付くままを徒然に

翻訳って何だろう・・・・

 
世界の十大文学などと著名な作者のものが並んでいるが、何を基準にしているのだろうと思う事が度々ある。
世界の様々な言葉で書かれた文学を、その言葉を読みこなせる人が読んで初めて、その文学を評することが出来るのだが・・・・・
翻訳されたものを読んでいては、その文学自体を評することは難しい。
何故なら、そこに翻訳の巧拙が加わるから、翻訳ものを読んで、その文学自体を自分の感覚で評することは不可能であろう。
ただ筋の面白さだけなら、翻訳の巧拙は関係ないが、作者の内心は伝わらない。
 
外国の文学をはじめ、様々な論文や解説書を読むとき、原文を読む人はそうは多くあるまい。
殆どの人は翻訳ものを読むことになるのだが、原文では本当に翻訳で表現された様な語感なのだろうかと思うときが可也ある。
同じ原作者の訳本が、数社から出ている時は良いのだが、一社だけからしか出てなくて、翻訳が自分の感覚と合わない時が一番困る。
哲学は哲学を学んだ人、医学は医学に通じている人、法律は法律に通じている人が翻訳しなければ話にならない。
とは言っても翻訳しながら自分で読むならいざ知らす、人にも読んでもらうためには、日本語にも習熟していなければ話にならない。
翻訳者は必ずしも日本語に習熟しているとは限らないのである。
外国文学と言われるものなど、翻訳の巧拙によってかなり興味をそがれることがある。
例えば、ドストエフスキー罪と罰を読み比べてみるといい。
訳者によって、最初のほんの数行だけで、その情景描写が、かなり違う。
全く別の本を読んでいるのかと思うほどに違う。
 
この人、日本語を知っているのだろうか、などと思うことがある様な翻訳にあたるときがある。
人物の描写で、ほんの僅かな表現の差によって、人物の性格に微妙な相違を感じる事もあり得よう。
日本人なら誰でも日本語を知っている・・・・とんでもない。
日本語の微妙な表現の差で、受ける感じは全く違ってしまう。
それを承知の上で使うのでなければ、日本語を知っている内に入るとは言えない。
ただ一つの単語であっても、簡単に翻訳してもらっては困るのである。
英語、ドイツ語、何処の国の言葉でもいい、和訳辞書で一つの言葉を調べても、ずら~っと十個ぐらい言葉が並んでいる事がある。
その一語一語は微妙に意味が違うことがある。
それを作者が表現しようとしたものとして、正確に選択して初めて翻訳したことになる。
 
日本語と言ってもいろいろある。
幼児の話す日本語、小学生の書く日本語、几帳面な人の書く日本語、専門家や学者の書く論文調の日本語などなど・・・・
翻訳物を買うときは少なくとも数ページから十数ページ、読んで自分の感覚に合うもの以外は買わない様にしているのであるが・・・・・・
先日、題名だけを見て買ってしまった本がある。
何故なのか、自分でも不思議に思うのだが、トイレにでも行きたくなって、慌てて買ってしまったものなのだろう。
帰って早速読み始めたのだが、数ページも読まない内に何とも言えぬ違和感に襲われた。
小学生の作文を読んでいる様なまだるっこしさ、いらだたしさを感じていた。
気が付くと、文節が短めであるのはいいが、文末にその原因があることに気が付いて、もうその本は読む気が失せてしまった。
子供の作文を読んでいる様な・・・・
あるいは子ども相手の童話を読んでいる様な・・・・・・
童話を読むときはそのつもりで読むから、抵抗は感じないのだが、一般の翻訳ものとして読むとき、原文は本当にこの様な表現しかしていないのだろうかと思ってしまう。
英語かドイツ語なら、原文を読んで見たいような気がする位、馬鹿らしさを感じてしまう。
文末に書かれているのを少し拾ってみると・・・・・
 
行ってしまったのです。
結論を下しました。
しませんでした。
娶りました。
選ばれました。
刻まれていました。
迎えられました。
しませんでした。
したのです。
語りました。
これが次から次へと文節ごとに続くのである。
この「~ました」「~であります」「~です」調の連続は小学生の作文調で一冊読み切るにはとても抵抗がある。
この言葉、日本語としては、丁寧な使い方ではあるが、書物の物語として読むとき、~ました。~でした。~いました。と言う文末は文節が短めだけに、この~ました調が文末ごとに出ては、とてもうるさく感じてしまうのである。
 
この人物について書かれたものは、他にも幾らかあるだろうからと、先日書棚を整理した時の、数箱の段ボールの空いているのに直行と相成った。
この原作者は古典のものを書いていた人だけに、多少惜しい様な気もしたのだが、~ました、~でした、の連続はイライラが募って精神衛生上良くない。
書物は心を広げるためのもの・・・・・それが反対に作用しては何のための読書かわからなくなってしまう。
翻訳ものを読むときは、少なくとも数ページは読んで見て、自分の感覚に合うかどうか確かめるのがいい。
それでも、一冊を読み終えるとき、途中、何か所かに首をかしげるような訳文に出合うことは数知れない。
翻訳ものだから仕方のないことかもしれないが、日本人が日本語で書く書物の様な滑らかさが感じられないのは困ったものである。
翻訳者の日本語力の、文章力の不足なのかもしれない。
 
漢文などを読むとき、何処で区切るかによって全く意味が違ってしまうことがある。
人によっては、一字を上に付けるか、下に付けるか、その人の読み方の相違なのだろう、訳文を読むとき、あれっ、こんな文だったかなと思って、前に読んだものを引っ張り出すときもある。
丁寧な人は、註でそれを指摘してくれる人もいることはいるのだが・・・・・
 
日本語って難しいな~ってつくづく思う。
 
 
 
イメージ 1
 
 
 
(本ブログの全ての写真は著作権を留保。無断使用・転用・転載・複製を禁ず。)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー