徒然の書

思い付くままを徒然に

シェークスピア雑感

 
お盆の上のどんぐり共の私を選んでくださいと、お盆の上を転げまわっていた騒々しさも、昨日で終わりになったのか、今朝は随分と静かである。
お盆の上に、二つか三つなら能々眺めて選べるだろうが、お盆一杯のどんぐりなど選びようもない。
尤も、二つか三つの中から、よくよく見定めて選んだつもりでも、俺もういいよって、途中で抜けると呆けた奴もいるから、どんぐりって当てにできないんだよな。
動画の前口上の様に、あの真ん丸で平べったい面相が登場すると、動画の内容さえ面白さ失ってしまう。
あのどんぐり共は消耗品だよって、うまいこと言った奴がいるんだよ。
その消耗品にそんなに目くじら立てることもあるまいと友は云うが、この頃の消耗品は材料が粗悪なのか、造りが粗雑なのか、耐久力がなくなっては困るよなって、もう一人の友が言っていた・・・・
それもそうだ、どんぐりの事などどうでもいい、本題に入ろう。
 
 
シェークスピアを読んだ人はどんな感想を持つのだろうといつも思う。
戯曲は文字として読んでも、面白くもおかしくもない。
そんなに多くのものを読んだわけではないので、言えた義理ではないのだが・・・・
特にシェークスピアの悲劇と言うのは読んで気分のいいものではない。
読後感は何とも後味が悪い。
何も感情移入が強すぎると言う訳ではないのだが・・・・・
喜劇と言っても、抱腹絶倒の喜劇ではない、ただのドタバタ。
戯曲を小説の様に粗筋をつかんで書き換えた小説風のものでもそうである。
それでも読むにはこれしかないので、骨にたっぷりと肉付けされた、いい作品を読むに限る。
 
この頃の、映画やドラマのシナリオの様に、原作の登場人物だけが同じで、あとは全く違った物語にしてしまう様なものでは困るのであるが・・・・・
原作者はよくも黙って、こんなシナリオを許すものだと思うくらい違ったものになっている。
それなら自分でオリジナルシナリオを書けばいいものを、と言うくらい違うのであるが、オリジナルを書けるだけの力がないのであろうと思っているであるが、あながち誤りではなかろうと思っている。
こんな映画やドラマを、原作を読んだ後で見ると、期待が失望感で満たされてしまう。
 
要は、戯曲でも小説でも、文字として表されるものは、その作家の心の奥底に潜む性根が文字として現れるものだと私は思っている。
その所為か、シェークスピア人間性自体あまり好きにはなれないのだが、戯曲としてのシェークスピアはどれを読んでも、ほんの数ページで放り投げてしまう。
そもそも、戯曲などと言うのもは、舞台で演じられるための作品で、文字として読んでも面白くないのが当たり前なのだろう。
場面の設定・・・・誰々が入場・・・・・等、今舞台にいるのはなどと、一々思い浮かべながら読まなけれなならない、面倒なことこの上もない。
その舞台芝居のあの大仰なセリフの言い回しや動作も極端に嫌いで、大半が居眠りをしてしまうのが落ちである。
一番下世話な、あの忠治の赤城の山も今宵限りだ・・・・などと言う三文芝居を思い出してみるといい。
あの大仰な、わざとらしさが鼻に付く。
芝居なんて、舞台装置が如何であろうと、日本語に翻訳されたセリフなんて同じようなものなのだろう・・・・・・
そのセリフが大仰で、だらだらと長いと、もうすぐ席を立ちたくなる。
要するに戯曲と言うものが、上演されたものでも、文字として読むのでも性に合わないということなのであろう。
 
随分と昔のことになるが、戯曲は嫌いだよと言ったら、あれは会話の多い小説だと思って読むと好いよと言った友がいた。
その小説のうちでも、会話の多い小説自体が嫌いなのだから、戯曲が好きになれるわけがない。
長広舌の入る会話が多いともういけない。
 
それとこの頃特に思うのであるが、シェークスピアを原文で読むのではなく翻訳で読むとき、いつも思うことはシェークスピアが本当にこのような言い回しをしたかったのだろうかと思うことである。
翻訳がどこまでシェークスピアの言いたかった表現を、正確に日本語に直しているのだろうかと思うことである。
この翻訳と言うのが外国ものを読むとき常に思うことであるが、訳者本人は原文に忠実に訳していると思っているのだろうが、日本語の言い回しとしてはとても耐えられない文章に出合うことが多々ある。
それは、哲学的な文章のものに、とくに多いように思える。
哲学書の翻訳は少なくとも哲学に通じたものが訳さない限り、凡そ日本語に翻訳しても意味のない文字の羅列になってしまうことが多い。
それでは、哲学をかじった訳者であればいいのかと言うとさらに悪くなる場合がある。
自分では分かったつもりで訳文を書いたのであろうが、日本語としては全く意味を為さない様な文字がだらだらと並んでいることが、時として現れるのである。
原文に忠実でありたいがために、日本語としては未熟な文章になっていることに気が付かないのである。
哲学者であったとしても、文法家ではないから、自分の言いたいこと理解したことを、正確に日本語にすることは大変難しいと思う。
自分では専門だと思っているから、自分では理解したつもりで翻訳しているのだろうが、日本人が普通に日本語として読んで、何を言いたいのか解説をしてもらわなければ判らない日本語になっているのである。
日本の哲学者がの書いた哲学書と翻訳物の哲学書を文章の滑らかさが全く違うことに気が付く。
そんな時思うのは日本語って難しいな~ってことである。
訳者って、自分では分かっている心算なのであろうが、原文に忠実でありたいと思うがために、日本語に変換するとき無理をするのであろう。
翻訳ものを読むときは、訳者の違ったものを比べながら読むといい。
驚くほどその表現の仕方に違いがあるのがわかる。
 
日本語の難しさは、今のワープロ、多くはMicrosoftWordであろうが、これなど日本語に精通してない者が作ったソフトだけに、文節の区切りなどが全く分かってはいない。
要は日本語そのものが分かって居ない、ただ機械的に変換するから、何処で区切ればいいのか、判断の付かないことが多いのであろう。
ほんの数文字づつ変換しながら打ち進めなければ、とんでもない文章になってしまう。
 
翻訳物について言えば、これは何も外国ものに限ったことではない。
日本の古典文学を現代語にするのも、翻訳とみていい。
例えば、多くの人が絶賛する式部の源氏物語の現代語訳を読んでみるといい。
あのごつごつとした、つっかえる様な現代語訳を読んでいると、これが絶賛されるほどの文学かと思う。
やはり源氏物語を読むなら原文で読まなければ、その良さは判らない様に思える。
とは言っても源氏物語自体あまり好きとは言えないからだろうが、多くの人が絶賛する程すぐれた文学とも思えない。
ただあの時代に、あれほど膨大な巻数をよくも書いたものだと、敬意を表するのに吝かではないが・・・・・・
その点、枕草子徒然草は現代語訳にしても比較的読み易いのだが、それでも、原文で読むのとは随分と違う。
 
シェークスピアからとんでもないところへ行ってしまったが、要は作品から受けるシェークスピア人間性自体が好きになれないのと、あの舞台セリフの大仰さが好きになれないのが第一ではあるが・・・・・・
 
シェークスピアの描く人間像の設定が極端に私の肌に合わないのである。
善人は少し頭の回転が鈍いのではと思うほどに、底抜けにいい子・・・・
悪人は陰険、姑息が着物を着て歩いている様な、人を騙すことが実にうまいテクニックを持っている人間・・・・
人を騙すことに人生をかけているような輩・・・・・
こんな人物像の描き方がシェークスピアは好きな様である。
シェークスピアの描く人物像はどの作品も名前変われど、全く同じような人間像としてしか描かれていない。
そしてこの男、決してハッピーエンドでは終わらせない、陰鬱な性格の男であったのかも知れない。
 
あの年老いたリヤ王をみてみるといい。
もう老人惚けが始まったかのように、言葉の表面しか理解できない情けない、偏屈な人物として描かれている。
あとになって、真実を悟り娘の死骸を掻き抱いて泣き叫んでも、もう遅い。
これが悲劇の悲劇たる所以であろうが・・・・・
 
話の設定が安易すぎるのも目立つ。
ハムレットの決闘の場面を思い描くといい・・・・
簡単に武器である剣を取り換えてしまう。
片方には毒が塗られている剣をだ・・・・・
安易な子供だましの様な話・・・・
 
権威者が、いや権威者でなくても多くの人が絶賛するほど、シェークスピアの文学っていいのかなあ~って思うことが多い。
 
あの夏の夜の夢のドタバタなどを読んでいると、あれっ、この時代は何時なんだろう、などとギリシャ神話が二つも三つも絡んだ様な・・・・この物語どうなってるの、などと思ってしまう。
 
尤も、シェクスピアの話のネタはギリシャ神話であったり、ケルトの伝承であったり、様々であるからネタ元のそれを勝手にひん曲げるわけにはいかないのであろうが・・・・・・・
 
最後にこのシェークスピアと言う男、何人殺せば済むのだろう。
知っているだけを数えても、既に二十人以上は殺している。
全部読んだら、何人殺されたのだろうと思う。
 
作品自体は好きでなくても、名セリフと言うか、名言と言うのか、これは認めざるを得ないだろう。
 
ハムレットかな、この呟き色んな所に用いることが出来るね。
To be, or not to be, this is the question.  哲学だよね。
 
ただ、シェークスピアの名セリフと云うのか、名言と言うのか、全部拾い出して集めてみるのも面白いかもしれないなあ~って、思うことはよくあるのだが・・・・・・
それでも、全部読んで見様等とは更々思いはしない。
 
 
 
 
 晩   秋
 
 
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