徒然の書

思い付くままを徒然に

お盆に思う~輪廻転生~

宗教というのは矛盾に満ちたことを得意そうに平然と人に押し付けてくる。

このお盆というのも宗教行事の一つなのだが、仏教で釈迦という男、本当にこんなものを説いたのだろうか、といつも疑問に思う。おそらく様々な弟子たちが己の都合のいい様にこんなものを作り上げて来たのだろう。現在は何百という経典が仏教を支配しているのだろうが、一つとして釈迦という男が書き記したものはない。

口伝での教えだというのだろうが、弟子の中にも頭脳の優れたやつ、あるいは阿呆に近い輩も存在しただろう。そんな輩が釈迦の教えだと言って世間に吹聴して歩いたら、それを信じた者を通して、とんでもない話が釈迦の教えとして広まっていく可能性だって無数にあるだろう。世界的宗教にしても仏陀やキリスト、あるいはムハマンドにしても己が直接書いたり、口伝したものが経典として残っているものはないだろう。それぞれの多数の弟子たちが、それぞれ勝手に教祖の教えだとして流布したのもばかりが、それぞれの教義として、流布されてきた。それを聞いた輩がまたそれぞれ違った理解を示して、何十,何百の教派が出来上がってきたのが宗教といわれるものなんだろう。

われは日本人にして、幸いなるかな、キリスト教イスラム教などは全く感知しないので、仏教特有のお盆というものが、本日でもあり、このことについっての矛盾みたいなものを感じているので調べてみようかなと思っている。

仏教には輪廻転生という言葉というか、概念みたいなものがあるらしく、人間の死後の在り方を述べたものだと知らされてきた。一方人間の死後については、釈迦といえど解るわけがないのだが、それでは弟子たちへの話の突端にもならないので苦労したであろうことは目に見えるようだ。それで輪廻転生などという途方もないウソを作り上げ、其れから脱出するには解脱するほかはないなどと、弟子を励ましたのであろう。尤も仏教では人間の生、すなわち人間が生きることは苦であるという前提が出来上がっているようで、それゆえ輪廻の世界から脱出することが必要であるというらしい。釈迦が修行して悟りを得たのはその輪廻の世界からの脱出を試みた結果であるといわれている。と私は理解しているのだが、輪廻の世界から脱出すると、天国へと昇ることができるらしいのである。ここで、仏教でいう天上界と天国とは別物である。ということを認識する必要がある。というのはキリスト教あたりでいう天国とは違う、輪廻のうちの一つ、天上界というものが存在するということである。

人間の死後四十九日は魂が元の世界、生きていた時の世界を彷徨って居ると言われており、四十九日を過ぎると転生して、いずれかの世界、六道の世界へ生まれ変わるのだと・・・・

とすれば、元の生の世界との関係は一切なかったことになるのは普通の思考力をもってすれば理解できるであろう。生前関係のあった者たちとも、無縁の存在になると言ことになろう。ではなぜ転生して他に生を受けているとすれば、転生してしまったものを先祖として崇め祭るということになる。釈迦の言う輪廻転生という思考というか概念というか、それともお盆で先祖を祭る現代人のどちらかが間違っているということになるのでは・・・

ただ、己の先祖が転生の輪廻から脱出して、天国に生まれ変わっているとすれば、十分に意義のあることかもしれない。天国の仏を祭り拝むのだから・・・

ただ現代人がお盆という日を設けて、先祖といわれる死者の生前を思い出して感慨ふける、気休めだというなら、それはそれ宗教すなわち仏教とはまったっく関係のないものになるのだろう。

ただ、人間という生き物は生前に人の在り方をのちの人間が思い出して懐かしく接することは、とても意義深いことではあるのだが・・・・であるとすれば、お盆という日本の催しは意義深い行いではあるといえるだろう。

輪廻転生などという概念は釈迦が唱えたにしろ、西洋のニーチェがツアラトゥストラで言い出した永劫回帰などという似たような死後の概念の阿保らしさは、頭の狂った輩の妄想でしかない、と思わずにはいられない。

なぜなら、どんなに特異な人間であっても、死後を経験したものはこの世には存在しないからである。医学的には何分か、死に類する状態にあった者はあるのだろうが、そんなものは論外である。

人間世界が苦であるとすれば、死後転生して人間に生まれ変わっても、苦を味わくことには変わりない。

だとすれば、大吾して天国へ生まれ変わる以外に、苦から逃れる道はないことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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