徒然の書

思い付くままを徒然に

要領のいい男

要領のいい男

 

福沢諭吉などという男はただの傍観者。岡目八目の傍観者として他人のやったことに一つ一つケチを付けて飯のタネにした男。

様々な争いを高みの見物よろしく、傍観していて、それぞれの行ったなったことに対して傍観者の立場から、クレームをつけて喜んでいる男。

これが明治の時代では思想家として扱われていた様である。

この男思想家などとは言える様な立場にはない。話がちょっと飛ぶが、彼の書いたものに、やせ我慢の説という論文がある。

親の臨終についてもう助かる望みはなくても最後まで、望みを捨てないという事例を挙げて、江戸城総攻撃による事態を回避したのは、武士の本義のやせ我慢に悖る、武士ならば落城まで城に立てこもって、徹底抗戦して、果てるのが武士だと非難するが、親の臨終の事例を挙げて、江戸城無血開場した勝という男を非難しているが、ことは明らかに視点が違う。親の最期をみとったのち己が親の後を追うというなら同じ次元になるだろうが、そうでなければただの親に対する未練でしかない。

この男の言う最後まで抵抗するのが武士道だなどと言ってはいるが、この男の言動を推測すると武士などとはとても思えりような行動などは、まちがってもしなかった。

負ける事が判っていても最後の最後まで戦うのが武士道だとして、江戸決戦を主張し、それを行わなかった勝海舟を責めているが、この男の論理を敷衍していくと、昭和の太平洋戦争に於いては、国民に竹やりを持たせて、本土決算だなどと軍部が喚いたことを、竹やりを以て、最後の決戦をしていれば、安易な福沢の意通り最後の最後まで戦えば、今頃日本という国は存在しなかったであろう。

福沢君よ最後の決戦を竹やりを以て、最後の抵抗を行えば己には満足だろうが国を無くしてしまえば、植民地どころの騒ぎではないぞ。

只岡目八目の傍観者であるに過ぎない己の意見など実際の状況にいおいては全く役には立たない事である。

福沢の考えは武士の考えだというものもいるが、優れた武士うならこのような姑息な事は考えないだろう。

おそらく福沢が勝を目の敵のように狙いを定めたのは、咸臨丸で太平洋を渡った時の勝の態度が腹に据えかねたのであろう。

尤も幕府時代も勝は海軍に相当詳しい様に扱われているのだが、勝つという男、全くの無能。何事につけても、人の上に立てる様な人物ではなかった様である。

だが本人はそうは思っていないのが面白い。ただ子供のころから猟官運動に専念したためか弁舌だけは立ったようである。

下級御家人で出世のための弁舌だけは巧であったという男。それを、どこでどうコネを付けたか、木村攝津守の従者として咸臨丸に乗り込んだ福沢との出会いであった。

その時点から、新政府になってからも勝が重要視されることに嫉妬を感じたのであろう。

それはそれとして、ただの傍観者の福沢当たりでは知る由もなかろうが、江戸城明け渡しの話は、山岡鉄太郎いわゆる山岡鉄舟が官軍の包囲を抜けて江戸から駿府総督府まで出かて、江戸攻撃の中止を西郷との話し合いで、決めたのであって勝安房はその決まった出来事を形式的に西郷と行ったに過ぎない。

それにしても福沢の主張をどこかで実践する状況になった時、やせ我慢の説を実践したとすれば、江戸の町は火の海となり、灰燼に帰し、百万市民の多くは死に至ったであろうことは予想される。

それを考えると、戦場を遠くから眺め己には被害を及ぼさないような方法を取り高みの見物を決め込んだであろう、福沢という男の冷酷な心には憤怒を感じる。

その後の時期、福沢が、本邦にもたらした西洋事情は機械化された状況と、工業化された西洋の状況を垣間見た福沢の西洋かぶれの姿。それを世に広めることによって西洋かぶれとして、世に紹介することで、混乱する明治の代に表れたといっていい。だが、福沢あたりでは知る由もなかったようであるが、江戸末期の江戸システムは世界が驚くほど文明が発達しており、世界の注目を集めていた形跡がある。

その江戸システムと徳川末期のテクノクラートも世界に劣るもではなかった、というより世界を相手に一歩も引かずに渡り合った。

これらは、徳川の引いた路線を走る以外に道のなかった長州のテロリストで組織した明治政府等は諭吉あたりでは、ほとんど理解できないでいたであろう。

後に、不平等条約等といわれているものは、長州人のテロしか能のない、無能な輩が構成する政府役人の言うことである。

福沢が何回か西欧へ出かけている様だが、貧乏な下級武士にそれ程の金銭的余裕があったわけではなかったのだろう、二度目の太平洋航海の時、福沢が公金に手を付け私的に流用して、天測と和算数学のエキスパートである航海士の小野友五郎に見つかり、怒りをかうという。

西洋から学ぶ事も沢山あったろうが、その前に恩人の木村攝津守のすべてを学ぶべきであったと非難されている。そのような文献もある。

岡目八目とはよく使われる言葉であるが、福沢という男あの動乱の時も、そんなものにはわれ関せず、人の行動ばかりを注目して批判するばかりの姑息な男であったようだ。

福沢が明治で行ったこと、さまざまな行いは、ただただ傍観者として他人の行いを眺めて、それなりの注釈を行ったというに過ぎない。

何事につけても我関せず、傍観者の立場で他人を批判することぐらいであったろう。

それも、丁丑公論の様な西郷を弁護するする論述を書いたが、それを発表すれば明治10年であってみれば、政府から追及される可能性ありと読んだか、世に出したのは政府の状況から判断して大丈夫と思ったか、24年後であったという。

福沢が書いたものはまったく政府から追及される事は無かったと言うから余ほどに要領よく立ち回っていたのだろう。

様々な事を書いて他人を批判することが、生き甲斐であったような、西洋かぶれの傍観男であったようである。

それと己がどれほど学識があると思っていたのか、学問のすすめの中では、わが国の現状をもって外国に及ばないものは学術、経済、法律、などといっている。これなども明らかな認識不足。

政府は様々な手を打ったが、国民は以前として無気力な愚民ばかりであると、使い物になるものは万に一人などと同胞を蔑んでいる、なんとも不遜な男ではある。

おまけに、政府の役人には人物とよべれる人が多い。

私から見てもその言葉、その行動、いずれも立派で、紳士的であり、非難するどころか魅力的ですらある、との政府の人物評であるが、何とも人の見る目に暗雲がかかっているのか、人を見る目が全くないのか、西郷が現実に感じて、怒りを覚えていることを考えると、まったく見当違いである様である。

長州人などはテロを行う以外、学識のある人物は皆無であったろう。

えせ学者の松尾に洗脳された、下級武士、足軽や仲間などであってみれば、人間としての常識さえ備えていなかったであろう。

国民の中にも愚民ばかりではなく、中には万に一人は公明誠実な人物もいる。

政府の役人には人物とよべれる人がおおい、と福沢は言うが・・・

ところが、西郷などに言わせると、過っての徳川の世を葬り、新しき国造りの苦しみをすべてのものが背負わねばならい、というこの時期に薩摩や長州の無能な輩などは豪勢な屋敷を持ち、衣服を着飾り、妾を囲って、己の懐に財をため込むことばかりを考えている、この様では我が国はどうなってしまうのか、あの徳川との壮絶な戦いで勝ち取った維新の目的は、このままでは到底果たされぬまま国は滅びてしまうだろうと、西郷は嘆いている(南洲翁遺訓)

尤も、岡目八目の目の甘さは定評のあるものであるが、福沢の岡目八目は偏見に満ちている。

たまに政府に不利な論文を書いても、逮捕されるなどの不利を逃れるために、何年も時には、二十数年も発表を待つという姑息なことも平気でやってのける。

其れで後世、福沢の書いたものは一度も官憲に逮捕されたことはないのは、よほど大物とみられていたか、要領がよかったのだろうといわれたりもしている。

明治10年に書かれた丁丑公論などは西郷を弁護しているから、発表していれば即逮捕されたろうが、これは二十四年も懐に温めていた代物で、もうそろそろいいだろうと明治三十四年に発表されたものである。

よほど薄汚い性格なのだろう。

何とも様々なことを勘案すると実に嫌な性格の持ち主ではある様な・・・

やせ我慢の説などという文書では、江戸城を枕に討ち死にする覚悟で戦わなかった、ということに避難のやり先を向けて、勝海舟を非難しているが、これなどを見ても心の冷たい人間ではあったようである。

江戸城に立てこもり徹底抗戦すれば官軍は江戸の町に火を放ち、百万江戸町民の生死さえも危うかったであろう。己は高みの見物を決め込んだ単身の無責任な生き物であってみれば江戸百万の民の生活や生死さえも関わりのない事だったのだろう。

この福沢の姿が神の御札を踏みつけて、弁壺に投げ込むという、子供ながらの非常識とはいえ、それが福沢の人間性なのだろう。

 

自分の思想を論文に書き上げたが、いざ公に発表する段になると、官憲に摘発拘束されるのを恐れて発表を数十年も延ばすなどというのは学者としても恥ずべき態度といわざるを得ない。

そして人の行為を非難する論文を書き上げ、さらにはその非難対象の者たちに文章をさえ送り付け、この議論は私が、勝、榎本、の二氏に対して、攻撃を試みたものではない。

等と書いているが、なんとも空々しい輩ではある。

謹んで筆鋒を緩やかにして厳しい言葉は用いず二氏の名誉を守るだけでなく、実際においても智謀忠勇の功名をあくまで認めるものである等と論文の中に書き加えている。

それにもかかわらず個別に文章を送り付けているなどは誠に不遜の極みである。

子供のころ、豊前の片田舎で育った男のひねくれた心はますます講じたのだろうか。

両方がそれぞれ、爵位を得たり、大臣にまで上り詰めては、激しい嫉妬にかられたというべきか。

いずれにしても不遜な嫌悪すべき性格ではある様である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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