徒然の書

思い付くままを徒然に

史記 白夷列伝の意味するもの

水戸光国が子供の頃から心に掛かっていたのは、六つ違いの兄頼重を差し置いて、世子になったことであった。
世子決定の時、兄頼重が重病を患ったということを知らされただけで、その理由がわからず、年ごろになっても、心にわだかまりがあったためか、傾奇者の真似事などして心を惑わしていたこともあり、よからぬ連中とも付き合っていた時期があった。
小さなころから兄に対する対抗意識は強かったようではあるが、今度は己が疱瘡に掛かって死を意識した時、兄の優しさにふれて、それ以後兄に対しては素直な気持ちで接する様になったが、己が世子であることについての悩みが解決したわけではなかった。
父、頼房自体が変わり者で側室は随分といた様だが、生涯正室を持たなったし、子らの認知もしなかったようである。
そのうち兄頼重は常陸下館五万石の大名に取り立てられて、水戸徳川の屋敷を出ることになった。
その後、頼重は讃岐高松十二万石に転封になっている。
この頃子供たちは、江戸の屋敷に住まいしており、兄頼重は生涯水戸に住まいすることはなかったという。
講談や物語では黄門様などと随分と出来た人間の様に描かれてはいるが、若い頃は相当にくせのある人物であったようである。
西山荘に隠居するまでに四十八人の命を殺めたと書いている。
その中には、傾奇者の悪仲間と悪さをし、無宿人をなますの様に切り刻んだこともあるという。
断罪して、自ら首を刎ねたこともある。と述懐している。
成長するに従い、京都の公家辺りに対抗して、詩や漢詩に情熱を燃やした時期もあった様であるが、とにかく勉強家ではあったようである。
それが、史記と巡り合う発端になったのであろう。
光国は史記の白夷列伝を読んだのであろう。
史記に触発されて、後に我が国の歴史の編纂を思いたった。
大日本史水戸徳川家当主徳川光国によって開始されて以後、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治になって完成した。
紀伝体史書で、本紀七十三巻、列伝百七十巻、志・表百五十四巻、全三百九十七巻二百二十九冊からなる。
この事業のために、水戸藩の財政は随分と圧迫されたと言われている。
水戸光国、これほど変貌を見せた人物も少なかろう。
史記の列伝の最初に書かれているのは、伯夷列伝で跡継ぎの事が書かれている。
列伝に書かれている伯夷と叔斉の兄弟が父の後を継ぐのを譲り合う場面なのだが・・・・・。
この白夷列伝には様々な事が書かれており、司馬遷にしてみればこの白夷列伝で何が言いたかったのか判断に迷うが、光国にすれば、己が兄を差し置いて、水戸家の世子に治まった心の負担が、この白夷叔斉の兄弟の譲り合いに心打たれたのであろう。
 
互いに譲り合い両方とも後を継がずに国を出奔してしまったのに比べ、己は兄を差し置いて水戸家を継いだことの負い目が、生涯にわたって心にわだかまりを持っていた。
それ故、兄に水戸家を返す意味で兄の嫡男綱方を嗣養子とするが、死去してしまう。
そののち、綱條を養子として水戸家を譲っている。
光国は兄から様々ななものを奪ったと自責していたようである
余は兄から多くのものを奪った。
奪ったものを返すのには実に五十七年もの歳月を掛けねばならなかった。
と述懐している。
 
光国の長男が讃岐高松へ養子に出されるが、これは親の勝手であって嫡男にしてみれば大変な迷惑である。
高松へ養子に出された子にしてみれば、心中おいそれと納得のできることではない。
現に同じような事例で養子に出された子が己の代わりに入って来た嗣養子を殺してしまうなどの話もある。
水戸家にしても高松藩松平家にしても、そこに仕える者たちにとっては、大変な不都合があったであろう。
世の人から見れば光国の律義さに拍手を送る様ではあるが、その犠牲になる者にとってはとても容認できない事柄であったかもしれない。
光国が史記の伯夷列伝に書かれたことを潔しとして取入れたのは単なる自己満足でしかなかったろう。
己の子とは言え、一存で己の心の傷をいやすために格下の大名家へ養子に出されるなど、子にしてみれば耐えられなかろう。
光国は勤王派として名が通っているのだが、これは彼が若い頃、公家が漢詩や詩歌に秀でていることに対抗すべく盛んに詩歌和歌などを研鑽したことに起因している。
天皇にしても公家どもにしても、この徳川の世では、無為徒食の輩で遊ぶ事以外、いかにして金を集めて安楽に暮らすかに腐心し、それ以外頭を使う事はなかった。
徳川からの捨扶持の少なさを嘆き、遊ぶ事以外、不平不満の坩堝をかき回すことが、日常の暮らしのすべてであった。
そんな公家の、詩歌の遊びに光国は惹かれた。
光国自体、天皇が本当に高天原から天下った天孫の子孫であり、貴い神の末裔であるなどと信じていたわけだはなかろう。
伯夷列伝によると、伯夷、叔斉は武王の横暴を止めるために諫言したが認められず、武王は軍をすすめ殷を滅ぼしてしまった。
なぜこんなところで白夷叔斉を登場させなければならない。
この白夷列伝で司馬遷は何を言いたかったのだろう。
この列伝で語られるものが多すぎると同時にそれらの脈絡がはっきりしない。
伯夷譲の精神と武王に対する諫言、入れられずに山に籠って断食、その挙句が怨みを残して逝ったのかどうか、善人の伯夷が餓死したのはお天道様がいないのではないか。
すべて前後脈絡がありそうで、全くのこじ付け。
頭脳明晰な司馬遷にしては余りにも事柄を盛りすぎた。
しかもそれについての己の考えは全く述べられていない。
 
 
伯夷、叔斉が列伝に現れる発端は、王位継承を譲り合い故国を出奔したことからだが・・・・・
国の王位の継承を譲り合って逃げ出した、伯夷と叔斉は、西伯昌(周の文王)が孝の道を実践して老人を大切に処遇していると聞き、彼を慕って帰属しようとした。
彼らが行きついたときにはすでに西伯昌はなくなっていた。
その子である武王が父の位牌を掲げて文王と諡号し、東に進軍して殷の紂王を討伐しようとしていた。
白夷叔斉は武王の轡を引いて諫言した。
武王に対する諫言一つ取り上げても、白夷、叔斉などのやったことは、ただの放浪者の世迷い言でしかない。
武王にしてみればこの白夷叔斉が過っては、孤竹国の君主の子であり、その国の後継者ではあっても、承継を嫌って放浪している、前身は如何であろうと今はただの浮浪者に過ぎない。
そんなものの諫言に耳を貸す謂れはない。
彼らの言葉は諫言とさえ言えない、ただの暴言でしかない。
僭越を通りこして、傲慢ともとれる態度であろう。
それで武王が殷を滅ぼしたからと言って、山に籠って、示威の断食をするなど愚の骨頂。
この白夷、叔斉、己自身が分かっていない。
中国は絶えず戦乱の世で攻防を繰り返している時代、手を抜けば己が弑られるとき、悠長に構えている時代ではない。
相手を滅ぼしたから、悪だと決め付け、悪の国の食べ物は食べないなどと断食をしてもそれはその者の勝手。
故国を逃げ出した孤竹国の君主の子であるという矜持が、武王に対して不遜な要求をして、断られて恨みに思っての断食だとしたらものの考え方が間違っている。
孔子は・・・伯夷叔斉は、旧悪をいつまでも根に持たないので、人を怨むことも怨まれることも稀であった。
仁徳を求めてその仁徳を身につけた人物であり、どうして恨みを抱くことなどがあろうか、などと言っているが・・・・・
何時までも根に持たない人間が、その国の食べ物を食べず断食などするだろうか。
孔子の買い被りとしか思えない。
武王の治める周の食い物は食べないと、断食をしても、結局はそこに生えている蕨を食べて生きながらえていたのだろう、何とも愚かな自己矛盾。
過っての王子の矜持が為した不遜な諫言だと気付くべきであった。
そしてあろうことか未練がましく、怨みの詩を残している。
それが怨みから出たものとすれば、将に逆恨み。
史記のこの列伝を読んでこの兄弟が怨みを残していたかどうか議論している様だが、私には怨みが芬々として漂って見える。
司馬遷はここで何が言いたかったのか・・・・
この譲り合いの謙虚な兄弟の謙譲をを書きたかったわけではなかろう。
歴史と言うものは、勝者が書いた敗者に対する、評価の記録であることは、洋の東西を問わない。
そして敗者は何も語れない、真実であろうが、虚偽であろうが、何でも語れる勝者の記録であるということである。
これは如何なる時代に於いても真理である。
その為に、我が国に於いて天武が大友から武力で王位を簒奪したのも正当として、認められているのである。
さもなければ今の天皇制など存在しなかった。
周の武王が紂王・殷を滅ぼした。
殷の湯王が桀王・夏を滅ぼした武力革命を、放伐といい認められている。
儒教がこの戦乱の世の討伐を認めなければ、孟子孔子等と言う儒教自体が成長したかどうか・・・・・
中国政治思想では、有徳者が天に代って、暴君を討伐・放逐するものと考えてこの放伐を正当化している。
儒家の思想では天命を受けたものとして、殷を滅ぼした周の天下を認めている。
それを、伯夷と叔斉は周の正当の王と認められた武王を、暴を以て暴に対抗した、その非を知らず、と罵り、批判していることになる。
 
最後に伯夷、叔斉が残したという、その詩を記してみよう。
 
 かの西山に登り その薇を采る
   暴を以て暴に易え その非を知らず
   神農・虞・夏忽焉として没す 我いずくにか適帰せん
   于嗟徂かん 命の衰えたるかな
 
の詩を残して二人は死んだとされているが、二人そろって、同時に餓死するのも珍しい。
 
この詩を読むと白夷、叔斉は世の中や武王に対して深い恨みを残して逝った様にも思えるが、孔子に言わせると、白夷叔斉は世の中を恨んでいたわけではないと言っている。
天の道には依怙贔屓はない、何時も善人の味方であるという言葉があるが、白夷、叔斉はお節介で傲慢な性格ではあるが善人と言っていい、ではなぜ山に籠って餓死する様な羽目になったのか、・・・・・
また反対に、平気で人を殺し、金品を奪って安楽に暮らし、天寿を全うする者もいる。
これでは天が依怙贔屓なく善人の味方であるという通念は誤りであるということになってしまう。
お天道様はしっかり世を見ているのだろうか、疑わしくなる。
善は栄えて悪は滅びるなどと言うのは世迷い言に過ぎないのだろう。
 
史記における本記、世家は政治史、書や表は文化史の歴史である。
それに圧巻と言われる列伝が加わって単なる歴史書とは違った意味合いの読み物的な趣向を加えた、すなわち総合的な歴史書とも言うべきものが出来上がった。
その列伝は才能が豊かで、正義感に燃え功名を立てた者たちの伝記風の物語になっている。
その彼らのために、列伝が書かれた。
だがその列伝の最初が何故白夷伝なのか・・・・・
この白夷伝で司馬遷は何を言いたかったのか・・・
司馬遷はこの伯夷と叔斉について特別な考えがあったのだろうか。
この白夷叔斉の列伝が最初に位置している意味は何なのか・・・・
判らないことばかりではある。
 

参考文献                           
史記                                   貝塚茂樹                                       中公新書
圀光伝(小説)                冲方 丁著                                       角川文庫
 


 

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