孔子の人間像
人知らずして慍水・・・学而篇
この冒頭の一文は孔子が己自身について語ったものと言うことが出来るのではなかろうか、という人もいる。
この一文を冒頭に持ってきた弟子たちの才の優れた様子が手に取るようにわか
この一篇の最後の章、十六章には人の己を知らざる患得ず、人を知らざるを患えよ。
他人が自分を認めないのは問題ではない、自分が他人を認めない方が問題だ、ぐらいの意味なのであろうが、孔子の煮えたぎる心の内を隠して、こんな言葉を発するなど、孔子と言う男の二面性を如実に表しているような気がする。
苦難の旅を続けた孔子の見た世界の真実とは・・・・・
弟子たちにとって、孔子はどの様に見えていたのであろう。
子罕篇にあるように・・・・・
之を仰げば弥々高く、鑽れば弥々堅し、と言っている。
孔子は弟子たちにとっては偉大な存在ではあった。
人間と言う生き物は口の端や振る舞いなどでは、その内心は容易にうかがい知ることは出来ない。
後でも述べるが孔子の本心は、政治への参画であって、夢破れたるを知った時の言葉、天、予を喪せり。天、予を祝照り、と慟哭したという。
天に対する絶大な信頼が失われた失望感。
五十にして天命を知った孔子にしてみれば、天に見放された絶望感は計り知れないものがあった。
孔子の人生は平たんなものではなかったろう、というよりは苦難の連続、そのような人物が何故に、聖人と崇められるようになったのか。
吾を知るは者は、それ天か・・・・論語憲問篇
なんと云う自信、いや不遜と言い換えた方がいいのかも知れない。
孔子が何故斉を去らなければならなかったのか・・・・
孔子の目指すのはただひたすら、周の文王の文化であり、徳治の政治であった。
孔子の考えが富国強兵をめざし、商業立国には受け入れられなかった。
孔子が手本とする周の徳治政治と云えども、武力による支えがあって初めて成り立っていることを見落としていた。
斉の宰相晏嬰によって孔子の儒の欠点はすべて見こされていた。
能書きが多すぎ、驕慢不遜、厚葬久葬、諸国遊説など斉の国情とは全く合わないことを見抜かれていたといっていい。
周の文王の文化を承継しようとしている自分を、匡人語刻が如何することが出来よう・・・論語史罕
天が私に徳を授けていてくれる、桓魋ごときが私をどうすることが出来よう。・・・論語述而篇
尊大さが滲み出ているこの様な言葉を吐くなど、弟子たちに対する普段は温厚善良な君子面をした孔子であっても、いざ命を狙われるという危急に遭遇すると、内心の本音が顔お表す。
傲岸不遜、孔子の内心はこの心で満ち満ちていたといっていい。
尊大さと言うものは、隠してもも隠しきれるものではない。
言葉の端々、僅かな立ち居振る舞いにも自ずから現れてくるのだろう。
その弟子たちの編纂の才が、学識が、孔子との問答に対しては、見事な潤色を施している、私はその様に思っている。
孔子に言わせると、弟子の教育によって各地の諸侯へ優れた人物を配する教育をした、ということになっている様であるが、多くの諸侯が孔子を採らなかったにもかかわらず、弟子たちに政治の場を与えているのはどうしてだろうと考える時、孔子には人間的な魅力に欠けるところがあったと考えざるを得ない。
君主の目、即ち国を治める諸侯の目には政治を任せうる人間としては不足であったと映っていたのであろう。
時によって見せる、あの傲岸不遜な言葉、天は我を見捨てたかなどと、天と繋がりがある様な言葉、君主にとってはいずれも鼻持ちならない態度であろう。
天子だけに限らず人を見る目の持ち主に在っては、孔子の人間としての評価は後世で聖人などと言われるほど人間としての魅力のある優れた人物ではなかった、のではなかろうか。
天から命を下された地上の偉大な王が天の子としてこの世を統治するという天明思想を振り回す。
孔子自身も天が己に文化国家の建設についての死命を与えたのだと尊大な、思い上がった考えを己の内に持っていた。
天の己に対しての信頼を公言するに至っては、いかなる諸侯と云えども、この様な輩を政に参画させる気にはならないであろう。
周の文王が既にこの世の者でない以上、後を託せるのは己しかいないと自負していた節がある。
孔子が最後に、天、予を喪せり等と言わざるを得なかった。
天に対しての絶対的な信頼が崩れ去っていくのを感じたのであろう。
何とも哀れな男に感じてならない。
一介の人士と一対一の関係を持つ、孔子は直接天と向かい合っていた。
そこに出てくるのは常に周公旦の徳治による政を引き合いにした徳による政。
周の始祖とも言うべき周公旦や文王。
孔子は彼らを慕ってその政治を真似ようとしていたのだろうか。
孔子が何故斉を去らなければならなかったのか、でも書いたが・・・・・
孔子が斉滞在中、景公からから政治について聞かれたことがある。
この時孔子は大切なのは正名と節約であると答えていた。
この時の斉の宰相は晏嬰であり、儒者の欠点を挙げ、口数が多く驕慢不遜であり臣下として使えることの出来る人間ではないと、説いている。
傲慢不遜な心情を見破られた孔子は斉を去らざるを得なかったのだろう。
このくだりは論語顔淵にある。
引用してみよう。斉の景公、政を孔子に問う、孔子対えて曰く、君君たり、臣臣たり。父父たり。子子たり。公曰く、善いかな信に如し、君君たらず、臣臣たらず、父父たらず子子たらずんば、粟ありと云えども、吾豈得て諸を食らわんや。
孔子が如何に学問に優れていたとはいえ人間としての魅力に欠ける様では、政治を任せる側近としての信頼を得ることは出来なかった、と考えるのが妥当なのであろう。
即ち、優れた商人は品物を深く仕舞い込み、何もない様に見え、君子が盛んな徳があっても容貌は愚者に似る。と私は聞いた。
見る人が見れば、内心の欲望など見抜かれるということなのであろう。
我が国あたりでは、孔子の弟子が潤色した論語が人間形成の聖典の如く扱われてきたが、孔子の言葉として受け入れられているが、体系的な己の思想として著述できない孔子の学とはどれ程のものであったろうと、論語を読み始めたころから疑問に思ってきた。
江戸の頃の様に論語でなければ夜も日も明けぬような時代もあった。
政治への参加を生涯の夢としていた孔子にとっては、周の文王の治世を夢見た程度の政治意識、徳治のみにたより、富国強兵を拒否する思考能力しか持ち合わせていないとすれば、激動の春秋時代であって、煩雑な社会の政に参画することは不可能であったろう。
そんな気がしてならない。
参照文献
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