徒然の書

思い付くままを徒然に

司馬遷と云う男~史記~ その壱

司馬遷が初めて史記の執筆に掛かったのは前百三年。
宮刑に処せられて、宦官になったのが前九十八年。
その後中書謁者令に任命。
史記を仔細に検討すると、史記は世に言われる程、史実に忠実な、優れた歴史書とはとても思えない面が随所に現れてくる。
単なる読み物、創作書なら何を書こうと作者の随意であるが、歴史書と銘打つからには史実に沿った忠実な史実を書くのが当然のことで、作者の主観によって事実が大きく左右されることは許されない。
細部まで描くとすればその部分に置いても史実に忠実でなければ意味がない。
尤も我が国には多くの註訳書が文庫本などで出版されてはいるが、漢語五十数万語に及ぶ史記全体の原文や注訳をたかだか十冊程度の文庫本に収録できるわけもない。
これらの注訳書は本紀、世家、或は列伝にしても、編集の仕方によっては史記と言う原本の体裁を知ることは出来ない。
本によっては、李伯列伝が列伝の最初に掲げられていると言っても、それすら確認できないであろう。
尤も紀伝体であるから、本紀あるいは世家、列伝だけをまとめて読むことは難しい。
そんな中から、司馬遷の考え、思想を読み取ることは非常に難しい。
如何に史実に忠実に書こうとしても、人間の感情と言う奴はそれを許してはくれない。
司馬遷にしても、あらぬ罪で死刑を宣告されて、宮刑を選んだものの、人間としても最大の屈辱を味わって、男が男でなくなった人間の精神が正常であるはずがない。
人間が普通にもつ好悪の感情とはまったく別個の精神状態で、書く物の中に投影されない筈はない。
ただ、世に言われる様に、我が国の記紀の様に天皇にだけ、あるいは藤原氏にだけ都合よく書かれた創作物とは違う事だけは確かな様である。
 
それはさて置き、史記紀伝体で書かれたところに面白さが出ているのだが、史実のみを忠実に書き記していたとすれば、それ程面白い読み物にはならなかったであろう。
ただ、史記を読むものは斉太公世家にさりげなく記された大夫崔杼について、史官が命を懸けて真実を記したことが書かれている。
それが、史記の史実に忠実であること、真実を描いているとの錯覚を呼んでいる。
史官が命を懸けたのは、事実を記録する事についてであり、その事実をもとに史書を作成することについてではないことに留意することである。
この命がけで事実を記録することと史記の事実性とは全く関係がない。
 
史記が様々な偏向、潤色を加えて書き継がれたことは、史記を通して読んでいくと明らかになる様に思う。
とは言っても史記は中国の漢書などとならんで正史として扱われている。
中国が正史としたことと、我等読むものはどの様に感じ塚は別物である。
この中国の古典は三国志と並んで、人間学の宝庫と言えるのかもしれない。
一国の宰相から将軍、軍師更には太后など女性まで、ドラマの俳優よろしく登場する。
ありとあらゆる人間と言う生き物の姿が様々な形を取って描かれているのはそれぞれの登場人物の人間性を知り、人間と言う生き物を知るうえで、極めて有意義な事である。
その物語の中で登場する人間が史実に沿った実際の人間行動の在り様を如実に描写されているのだろうか。
嫉み妬み、それに伴う讒訴、讒言による殺戮、並みの官僚や軍の将軍は勿論の事、一国の宰相にまで及ぶのは人を信用しない、懐疑的な性格の人間模様。
中国人の内奥に潜む残虐無比な性格、中国人の人間性の残虐無比な性格まで、克明に司馬遷は表現している。
その中でも、女の復讐の恐ろしさを司馬遷はどの様な気持ちで綴ったのだろうか。
これは男の帝王の責任でもあるが、その残虐さは想像を絶するものがある。
悪女として、名を轟かした劉邦の妻呂后劉邦の死後、太后として、劉邦の夫人に行った行動は人間のする事とも思えない、狂気の沙汰であった。
劉邦は晩年になって、戚夫人を寵愛した怨みであったのだろう、夫人の手足を切り落とし、目玉を抉り出して、耳を焼き切り、その情態で、糞壺の中へ放り込んだ。
鼻をそのまま手付かずにしたのは、糞尿の臭気をたっぷりと吸い込んで、彼の世へ行けという意味らしい。
戚夫人の息子、如意もただでは済まない。
趙王に封じられていた如意も呼び出されて、毒殺されている。
むごたらしいなどと言う生易しいものではない。
司馬遷は書いてはいるが、果たして事実であったかどうか・・・・・
ナチスドイツのユダヤ虐殺や類を見ない暴君と言われる始皇帝の儒生生き埋めなど色褪せてしまう残虐さである。
司馬遷の秦に対する驚くほど激しいが、始皇帝の坑儒などは項羽の捕虜虐殺に比べると、赤子の様なものである。
数十万人に及ぶ捕虜を黄土の裂け目に放り込んで、生き埋めにして平然としている。
釜で人間を烹殺すなどは日常茶飯事である。
この様な残虐な行為を平然と書いてゆく司馬遷と言う人間の精神状態を思うと史記の真実性に疑問を持たざるを得ない。
この残虐性は人間の言う生き物自体に備わった性なのであろうか。
遠い昔大陸から多くの渡来人たちが我が国に亘ってきて、混血して現在の我が国の人々がいるとすれば、この残虐な性が我が国の人々の中にも当然受け継がれていることだろう。
ただその様な意味でも歴史的読み物としては興味の尽きない面白さがある。
だが小説と言うことになると、現代の小説にははるかに及ばない。
司馬遷が形っている様に、悔恨と恥辱、屈辱感、親に対する倫理観苛まれ、
親の墓にも詣でることが出来なくなった、という精神的ダメージがトラウマとなって、史記の執筆にも多大な影響を及ぼしていることは十分に考えられる。
ここで親に対する倫理観と言うのは、古代中国では後天的不具者となったものの感じる悲哀は近代人の感じる其れの他に、先祖に対する不孝と言う倫理観が加わっている。
これは、孔子の言葉を編纂したと言われる、孝経には、次のように書かれている。
身体髪これを父母に受く。敢えて損傷せざるは孝の始めなり。
この倫理感で二度と親の墓参も出来ないと悩んだと言われている。
この様な司馬遷の精神的鬱屈が人物評価や表現、あるいは好き嫌いに重大な影響を及ぼしていることは十分に考えられる。
 
中国では孔子が怪力乱神を語らず、と言って以来、架空の世界、フィクションの世界を語ることはタブーとされてきた。
子不語怪力乱神は論語述而篇にある。
孔子は怪異、暴力、乱逆、鬼神について講釈することはなかったと言っているのである。
それが孔子の死後、数百年にして、儒教が権力と結びつくことによって、文学の世界にも影響を及ぼしたのであろう。
それ故、史記が全くの作り物であるということは考えられなくは為ったが、史実をもとにした司馬遷の意思に沿った創作物であるということは否定されない。
事実、秦の始皇帝の時代、多くの書が焚書されたと書かれているが、それらの失われて物をどの様に補完したのかも気になるところである。
秦の時代に記録されたものから推測する以外にないのだろうが、果たしてそれで十分と言えるだろうか。
 
さて、話は飛ぶが、この稿で白夷叔斉を語ることが目的ではないが、何故列伝の最初に伯夷列が挙げられたのか、様々に言う人がいるが、この話を列伝事態で取り上げる意味があったのだろうか。
儒教にも言う譲り合いの美徳で、孔子に言わせると、仁を求めて、仁を得たのだから、誰に恨みを抱くことがあったろうかと、孔子は怨みを残して死んでいったとは思っていない。
孔子が、述而篇で取り上げたのは、儒教の言う、譲り合い、いわゆる譲に関して言いたかったからで、それ以外には何もない。
更に孔子が記したと言われる春秋に、何も取り上げられていない、それが司馬遷にとっては非常に不満であったらしい。
白夷叔斉にとって周の武王は他国の王であり、武王にとっては白夷叔斉などと言うのは、他国の浮浪者に過ぎない。
その様な輩から諫言などと称する雑言を聞く謂れはなかったろう。
その場で殺されても文句の言えない立場の白夷叔斉が命を助けられて放免されたことだけでも良しとすべきである。
その諫言ともいえない繰り言を聞かずに戦闘に出たとして、伯夷叔斉が断食したことと、彼らの生国の王位を譲り合った事をごっちゃにして、山に籠って断食し、怨みのこもった詩を遺したと、判断しようとしたところに司馬遷の思考過程に欠陥がある。
孔子が言うのは互いに譲り合って王位を放棄して放浪した、そのことについての判断であり、武王に行ったことについては判断外と考えているというよりも、何故山に籠って餓死したのかその理由さえ知らなかった、と思った方が筋が通る。
伯夷叔斉の武王に対する非礼は僭越の極みであり、受け入れなかったと断食すること自体、阿呆の骨頂であり、不遜な態度で、恨むなどと言うのは筋違いである。
断食して、死のうが、生きようが、それは自業自得であり、武王を恨み、世を恨むなどは論外。
 
司馬遷武帝によって宮刑に処せられた、意識するとしないとに係わらず、鬱屈した精神が武王に向けられた結果なのであろう。
宮刑に処せられ、肉体的な鬱屈が精神に影響を及ぼさない筈はない。
司馬遷のその精神的歪みが、史記の至る所に出ているような気がする。
孔子は白夷叔斉が武王に直訴したことは問題にしていない。
あるいは、その事実を知らなかったのかも知れない。
宦官になった司馬遷の鬱屈した精神状態が事実を見る目を狂わせていたことは十分すぎるほどに推測される。
更に、司馬遷史記の様々な項目の終わりに、太子公曰くなどの主観の寸評を乗せているが、これは事実とは全く関係のない、主観的寸評である。
この様なものを書くこと自体、史書としての体裁外の事であろう。
天道、是か非かなど驕気も甚だしい。
司馬遷の驕気が全編に満ちて、この史記を読むたびに不愉快な気分になる。
先にも書いたが、特に秦については相当な偏見を持っていた節が見える。
司馬遷自体、物の考え方自体に安易さが支配していたのではなかろうか。
だとすればとても重要な記録を安易に考えて、己の感情の好悪に従って事実に偏向を加え、潤色を加えて史書としてではなく、歴史的創作物、即ち小説に類するフィクションを書いたとも推測して不都合はない。
史実を取材し、時代考証を正確に書き記せば、フィクションと史実の区別を見分ける事は難しい。
 
周の幽王が愛妃におぼれて膨大な国費を費やし、政治を顧みなかった時に攻め込まれて、逃げ惑ったあげく、捕えられ殺されてしまう。
栄華を極めた西安の京は蛮兵にに蹂躙され、焦土と化した。
周は已む無く東へ移り洛陽へ遷した。
やがて犬戎は北方へ去り都の後は無人の野と化した。
そこで秦の襄公がその地を占拠し、西の郊外の山間に、神社を建てて、天を祀る祭祀を行った。
これが秦の建国である。
秦が天祭りを行ったことに、司馬遷は異常に反応している。
天祭と言う意味に拘っているのだろう
ここに司馬遷が記すのが秦に対する偏見に満ちた文章で綴られている。
司馬遷は次のように書き始めて以来、秦の滅亡に至るまで、秦についての記述は悪意に満ちている。




参考文献
史記                                     岩浪新書                          貝塚茂樹
史記 各巻       司馬遷        徳間文庫                          編者 多数



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公園の古民家
 
彼方此方の公園に移築された、古民家の屋根が吹きかえられている。
ここ府中の郷土の森の古民家の屋根も吹きかえられて美しい姿になっていた。
その前庭の入り口の紫陽花が今は盛りと美しい花を咲かせている。







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