徒然の書

思い付くままを徒然に

弓削の道鏡 その弐

 
その奈良朝時代聖武恭仁京、紫香楽恭、難波京などへ遷したが主な都は平城京であった。
その平城京によって象徴される奈良朝時代は血で血を洗う凄惨な権力闘争の時代であった。
藤原の邪魔なものを排除する常套手段は陰険姑息な手段を弄して、長屋王を謀反の企みありとして讒訴させ、自害に追い込んでいる。
これが長屋王の変であるが、讒訴密告は藤原の意を受けたものが為したもので長屋王には罪はなかった。
この後も藤原の家系は可惜有為な人物を排除するために姑息な讒訴密告を用いていることを常套手段として、政敵を屠り実権を手にしていくことになる。
この姑息な家系の藤原一族がこの後昭和の時代まで、事あるごとに我が国をあらぬ方向へと引っ張っていくことになる。
この藤原一族は日本国にとって、持統の時代にできた癌であったと言っていい。
その藤原の暗躍跳梁を許すほどその時代時代の天皇は無力無能な天皇であったと言える。
藤原四兄弟が瘡にかかって頓死して、藤原の勢いも一頓挫する。
如何に藤原とは言え権力を握っていた四兄弟の死によって、勢いは急速に薄れていた。
後に太政太師にまで上り詰めた武智麻呂の子仲麻呂はこの時は未だ漸く貴族と言われる従五位下の最下級貴族の端くれであった。
この男どの様な手管を使ったのか皇太子の安倍の内親王を誑し込んで、出世街道をひた走ることになる。
仲麻呂と言う男、流石は藤原の一族と言えるほど急速に頂点へと上り詰めていく。
政治と言うよりも己の欲望の思うがままの政をした男である。
 
仲麻呂の足跡をたどってみると・・・・
734年(天平6)ようやく従五位下となったが、父の急死を契機に急速に官位が昇進。民部卿、参議、兼近江守、式部卿などを経て、749年(天平勝宝1聖武天皇孝謙天皇阿倍内親王)への譲位とともに大納言。また光明皇后皇后宮職を拡充した紫微中台の長官となり、しだいに権勢を強化した。
――日本大百科全書の解説――
この仲麻呂の権力が猛威を振るっている時、橘奈良麻呂らが仲麻呂を潰すべく計画したが、上道斐太都の密告に依り企みはもれた。
何時の時代でも薄汚い密告屋がいるもので上道斐太都などは後に大変出世していくことになる。
奈良麻呂らは、皇太后天皇に許されたが、後に再び仲麻呂に捉えられ、拷問によって弑せられてしまう。
この時拷問死したのは四百数十名に上ったという。
 
ついでに橘奈良麻呂の足跡をたどると・・・・
奈良麻呂が右大弁に任ぜられてまもなく、同757年(天平勝宝928日山背王が訴えて、奈良麻呂が兵器を備えて、藤原仲麻呂の田村宮を囲もうと謀っていると告げた。72日上道斐太都がさらに詳細に謀反の状を仲麻呂に告げたので、奈良麻呂をはじめ一味の塩焼王安宿王黄文王らは3日に捕らえられたが、光明皇太后にいったん許された。しかし、4日に小野東人、安宿王奈良麻呂らが糾問され、謀反を自白させられ、一味とともに杖下に死んだと考えられる。
――日本大百科全書の解説――
にも拘らず、出世を成し遂げたのは光明皇后と安倍内親王を誑し込んだ結果であったのだが、この男の阿呆な処は、いろで釣った女たちを放っておいて何時までも己の意のままにあると錯覚した阿呆な男であった。
昇りつっめてのち即位していた孝謙天皇との男と女の関係をないがしろにした結果の様である。
元々頭の着れる男であったら、荒天の態度の変化や、険悪になってきた両陣営の確執を敏感に反応して、対策を講じたであろう
元々仲麻呂儒学に精通した明晰なお子であったとされてはいるが、書物を読んだくらいで、儒学に精通した明晰な武皇の持ち主とは言えない。
みなが畏れ彼の暴挙にも難色を示しつつも、従ったのは虎の皮をキタキツネであったゆえである。
天皇位に在り孝謙をつかんでいるため誰もが逆らわなかった事を己の力と過信して、やりたい方だを行っていた。
光明皇后孝謙天皇を色で籠絡していなければ、何もできない凡庸な男であった
この男の阿呆な処は、ただの色事を利用して上り詰めたことを忘れて己が利口なものだと思っていたことの一語に尽きる。
女帝はこの時期一生独身である必要があり、人間である以上性的欲求は女帝と云えども抑える事は不可能であろう。
 
そこへ擦り寄って来たのが藤原一族の仲麻呂であるが、生来聡敏で,また読書家でもあり,算道にも精通していたと言われていたとすれば、当時のインテリで、若い内親王とすれば魅力を感じたとしても不思議ではないのだが・・・・・
のちの滅亡への有様を鑑みると、ただの凡庸な権力欲だけの男の様である。
政にうつつを抜かすもの、政とは言っても己の子や近親を参議に取り立て、己の回りを固める事、必要も無いポスを作って己が長官になって権力をほしいままにする様な愚物であったと云えよう。
そして一生独身を通さなければ為らない若い女、安倍皇太子の性的欲求を満たし、女にしてくれた男の夢をかなえる事、男の様々な要求を満たすことに喜びを感じる純粋な女、男ならとても愛しい可愛い女と思える。
それが従五位下の下級貴族から異例の出世を遂げた理由であったろう。
また一方、光明交互にしても聖武と言う男は毘盧遮那仏の建立に夢中になり、政治に身の入らない男が己を構ってくれないとすれば皇后と云えども他の男に触手を移しても無理からぬことであった。
安倍皇太子は仲麻呂の私邸田村第に帰途立ち寄り,以後しばらくここを御在所としたほどであったが、階位が上がるにつれ、多忙になることは当然としても、その為に女の欲求を満たせない様では、破たんは目に見えている。
安倍皇太子が即位して孝謙天皇となったのち、仲麻呂が女帝から遠ざかったのは光明皇太后仲麻呂孝謙との関係を断つように言ったからだという説もある。
あるいは仲麻呂光明皇太后とも通じていたと考える事もできるし、当然通じていたであろう。
不必要とも思える,紫微中台などと言うものを皇太后のために造り自ら長官に収まった。
もともと、皇后宮職を改組したもので、改めて必要も無いのだが、令・弼・忠・疏の四等官制をとり、官位相当は八省より高かった事を利用する為であった。
光明皇太后が死ぬと仲麻呂の勢力も急速に衰微していったと言われている。
この仲麻呂の狡猾な処は、己の長男が死ぬとその正妻であった女をの大炊王の正妻に押し込んだことであり、この様な工作をして孝謙大炊王へ譲位を迫ったことである。要は天皇を己の女婿にしたことである。
その挙句、皇太子道祖王を廃して田村第に住まわせていた大炊王を擁立して皇太子とした、更に大炊王に譲位させたのが天平勝宝九年八月一日淳仁天皇に即位した。
その頃になると仲麻呂は殆ど孝謙太后は無視してしまっている。
孝謙太后は鬱々として精神に異常をきたした孝謙平城京宮殿の修復を名目に保良宮へ移してしまった。
 
ここまでは、色を肴に孝謙天皇を操ったが、己は淳神天皇を操って勝手放題をすると、孝謙上皇は殆ど放っておかれた。
感性の強い上皇にしてみれば精神の不安から、病を発する様になり、精神の負担の病は当時の医学や真にの看病禅師の手におえるものではなかっら。
淳仁天皇はある意味で仲麻呂の婿的な天皇と言っていい。
女帝が仲麻呂に溺れ、仲麻呂の傀儡天皇であったことがはっきりとわかる。
これまで、仲麻呂を支持していたのは光明皇太后孝謙天皇だけであり、藤原一族ののかでも孤立していた。
己の階位や己の子たちの身分を挙げる事の汲々としていた。
道鏡の心の中では孝謙天皇は青年の頃吉備真備の屋敷で見た安倍内親王そのままであった。
道元が師の良弁の推薦で、宮廷の内道場に入れたとは言っても新参の行えるのは女官たちの治療に限られていた。
だが道鏡の修行の成果が現れて、多くの女官の治療は女官の評判を呼び、頼られることが多くなり、様々な事柄についての情報が女官からもたらされるようになった。
 
ある女官によると、女帝が譲位したのは女帝は自由の身になって仲麻呂との関係を復活させたいためだったとさえ漏らしたという。
若い頃から道鏡自身もひとかどの僧にになる夢を抱いていたが、宮廷の内道場に入れたのは何十年も後の事であった。
内道場の看病禅師になったとはいえ、新参の道鏡の看るのは殆ど女官ばかりであった。
とは言っても道元の治療の力は並ではなかった故、女官たちの評判は絶大であった。
そんな時女帝の病気が重くなる一方で、宮廷の医師や看病禅師の力では手の施しようもなかったらしい。
道鏡が初めて女帝の治療を命じられたのは天平宝字五年、761年の春、道鏡が五十一歳、孝謙太政天皇が四十四歳の春であった。
孝謙天皇道鏡の心の中では若い頃に見た憬れた安倍の皇女のままであった。
此処から道鏡の念願の安倍の皇女の治療がはじまるのである。
その欲求不満が高じて、精神的に異常をきたした孝謙天皇の病状を改善したのが、内道場の看病禅師になっていた道鏡であった。
長い時間をかけて、道鏡の懸命の治療が続くが、その気持ちが伝わらないことはなかった。
安倍の皇女、既に孝謙天皇ではあったが、同居の心の中では依然として安倍の皇女であった、その皇女の精神の治療が功を奏して完治した時、彼女の心の内に道鏡に対する慕情が芽生えていた。
道鏡に対する純愛と言っていい、健気な彼女の心の内であったと言っていい。
仲麻呂に出世の道具としてもてあそばれた安倍の皇女、孝謙ではあったが、道鏡に対する純な恋心が芽生えていたと言える。
この頃の道元は学識、呪力ともにぬきんでた力を持っており、昉元が宮子の鬱病を直して、勢力を得た様に、道鏡孝謙の信頼を勝ち取っていく。
この孝謙道鏡に対する信頼感が、仲麻呂にないがしろにされた直後だけに、恋心に変わっていくのにそう時間は必要でなかった。
 
道鏡が世に追われる様に天皇位を狙って悪僧であっても無くても、太政大臣禅師と言う奇妙な名の地位に付き、更に法王にまで成り上がった経緯には、この仲麻呂と言う男の無制限とも言うべき権力欲についても、知っておく必要がる。
ここで先にも書いた奈良麻呂の乱の結末を再確認しておこう。
橘奈良師らの反乱は上道臣斐太都の密告で奈良麻呂らは捉えられたが、光明皇后は穏便に抑えようとしたが、仲麻呂によって取り調べに当たった、藤原長手、小野東人によって、拷問死させられた。
その数四百数十名に上った。
ところが、続日本記を見ても首謀者の橘の奈良麻呂がどの様になったのかの記載が見当たらない。
この欄に依って仲麻呂の権力に逆らうものがいなくなって、恵美押勝などと名乗って、太師即ち太政大臣に任ぜられた、天平宝字四年であった。
皇族以外でこの地位に就いたのは仲麻呂が初めてであった。
孝謙天皇と共に仲麻呂を擁護し、支えた最大の庇護者光明皇太后が、仲麻呂太政大臣になって間もなく、病に臥し死んでしまった。
仲麻呂には人望がない、権勢を恐れて従ってはいるが、権勢を支えるものが無くなると、仲麻呂の唯一の基盤なくなってしまうと、その権力は弱まってくる。
道鏡の一刻の師でもあった東大寺の良弁が大僧正になったのが天平勝宝八年、756年である。
良弁に認められていた道鏡が、良弁によって推薦され、内道場の看病禅師になったのがこの年であった。
道鏡既に五十歳であった。
 
この後仲麻呂の権力の基盤がすべて無くなってしまっては、一見、切れ者に見える、凡庸な男の没落の過程が始まる。
いわゆる仲麻呂の乱である。
もうこの頃には孝謙天皇道鏡に対する涙ぐましいほどの、四十女の純愛が、心の内に芽生えている。
まるで少女の様な純な愛情と言っていいのかも知れない。
 
道鏡に関する歴史的記述は殆どないに等しい。
フィクションの部分は黒岩重吾著 文春文庫 弓削道鏡による。




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十月桜

十月の声を聴くときっちり花を咲かせる。





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