曖昧模糊とした日本の古代史
最も大きな過ちは神などと言う、人間とは別世界の異界の物を人間を支配するものとして取り込んだことにある。
こんなものは宗教の世界か神話の世界のものであって、国家の歴史とは関係のないものである。
宗教が国史を動かすことはあっても、神自体が国を作ったなどと云うのは国家の歴史とは範疇が違う。
歴史と言うのは人間社会が経てきた流動変遷の姿、やその記録をいうと多くの辞書には書かれている。
この様なものを国家の歴史として認めて良いはずはなかろう。
記紀における神代の記述は歴史の範疇外の物であり、神話の世界として語られるべきものであった。、
天の岩船に乗り、天孫降臨などと、有りうることもない神話の世界を歴史の中に取り込もうとした、天武や藤原の作為が我が国の歴史を不透明なものにしてしまった。
我が国の神代の世界は、ギリシャの神話の世界のように、ヤマトの神話として別体系のものとして扱われねばならなかった。
己を権威づけるために天孫などと馬鹿な思想を持ち出したところに、神話と歴史をごちゃ混ぜにして、史実は言えない様なものを作ってしまった。
後世の馬鹿者たちによって神話の世界を現実の世に取り違えて、神国などと呆けた思想をエスカレートさせてしまった。
ギリシャのように神話の世界と支配体系とは厳に区別しなければ確かな史実などは望むべくもない。
ギリシャの神話は宗教としてさえ残ってはおらず、純然たる神話の世界を構成した。
宗教や神話を支配体系の中に持ち込むと、必ずや史実に歪みをもたらし、推測、憶測の類のものを史実として取入れなければならなくなる。
書紀などに初代天皇などとして、史実に登場させているが、神武などを歴史の中に登場させたいのなら、者じゃなくて物として登場させるしかない。
ここで物とは何ぞやを辞書にて紐解いてみると、・・・・
物とは形のある物体をはじめとして、存在の感知できる対象、また対象を特定の言葉で指示さず、漠然と捉えて表現するもの、形のない存在、あるいは超自然的な恐ろしい存在に用いる、とある。
物は物質であるとともに、非物質的なものを表現することに使われている。
この様に物についての古代人の考え方の特異性は東洋的多神教独特のものであろう。
神は神であるとともに、災いをもたらす鬼としてしての二面性を追ったものとして扱われていた。
多神教の我が国などにおいては、物とは神そのものを指していたのかも知れないし、神の二面性から鬼をも表す言葉として受け止められていた。
弥生の頃よりもっと古い頃、縄文の頃とでもいうのだろか、その頃の人々は自然の恵みと共に、荒れ狂う自然の脅威をただひたすら耐え忍ぶしかなかった。その自然の神は、荒れ狂う自然の脅威は鬼と一緒と考えても不思議はない。
鬼と言う言葉はずう~っと後世になってできたもので、縄文の頃は神も鬼もすべて物と言っていたのではないだろうか。
ギリシャ神話と対比してみるといい。
ギリシャ神話の神々を支配体制とは完全に別個の存在として、神話の世界を構成している。
だから人間社会を治め、支配するものとしては考えてはいなかった。
にも拘らず、ただ権威を得たいがために、神話の世界を取りこんで、不遜にも己は神の子孫の末裔であるとした天武やその取り巻きが後に編纂した記紀などと言う物が曖昧模糊とした創作物と成り果てたのである。
同じ様に、ヤマトに勢力を張って、後に蘇我氏に滅亡させられた物部氏の先祖と言われる、饒速日などと言う物が天の岩船に乗って、何処からともなくやって来たなどと言う曖昧模糊としたものを先祖とするなどと、史書としては、信ずるに足らないものが我が国の古代史の史実として扱われている。
九州に存在したと言われる、物部の先祖は天の岩船ならぬ、水上の船に乗って瀬戸内を渡って倭近辺にたどり着いたものと書かれれば立派に史実として通用するものを・・・・・。
八世紀にできたという記紀などは、天武によって集められた豪族の家記などは藤原不比等によって、己が支配するに都合の良いように作り変えられてしまった、それが日本書紀と言われ、我が国の歴史書とされたものの正体であろう。
各家の家記の必要なくなったものは抹殺されてしまった、それが一層我が国の歴史を曖昧なものにしてしまったと言える。
歴史の事実の中へ神話を横滑りさせると、歴史を歪めてしまうことになる。
神話は神話の世界の中で人々を楽しませればいいのであって、一国の歴史の中へ横滑りさせ、取り込む様な編纂をすること自体が不遜なのである。
天武や藤原不比等などと言う権力の亡者では、国記を編纂する能力はないというべきであろう。
現代においては、史家即ち歴史研究者は自説を展開しているが、それ以外の人々が神話の世界と現実の世界を行き来させた説明を取っているのは何とも不可解である。
単なる、著作物にしても、論文にしても、いくつかの説を並べたら、単にこのような説があるだけではなく、自説をはっきりさせなければ、著作物としては落第なのである。
しかも、こんなところに神話の世界の天照を持ち出さなければ説明できない、神話と歴史的事実を混同した不都合がある。
古代史を研究する作家とは言っても、黒岩重吾氏のように、私はこのように考えていると、自説をはっきりとさせる必要があるように思う。
いずれにしても書紀に出てくる、神話の世界のものを持ち出して、すり替える作業が必要になってくるのは、歴史書を創るという過程において、史実の信憑性に欠けることになるだろう。
歴史を語るにおいて、その正当性、信憑性を立証する為とは言っても、神話の世界を僅かなりとも持ち込むことは単なる方便になってしまい、正当な歴史的事実況して国史などとは言えなくなってしまう。
では書紀にはその十代目の崇神大王は九代目開化大王を父と書かれているが実在しないものが父になれるわけがない。
この崇神大王の出自をはっきりと書いたものは見当たらない。
神話などと言う作り物を歴史の史実の中に、横滑りさせて取り込むからこの様な不可解な事が起こるのである。
ただ、四世紀後半に起きた、九州の幾つかの部族が東に移動した時に、大和の王族の娘と婚姻関係で結ばれたどれかの部族の王が、応神、仁徳王朝の始祖といえるだろう。
この王が河内に王朝を築き畿内の部族国家制圧に乗り出した、四世紀後半から五世紀初頭であったのではなかろうか。
そして倭国の最初の王朝といい得るものになる。
この王朝が、武烈の代で断絶するまで続くのである。
尤もそれまでの間にも大王の座の空白の時期は何度かあったのだが、血の欠片は続いたとみていい。
これが大和朝廷の成立のはじめと考えるのが妥当なように思う。
参考文献
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