徒然の書

思い付くままを徒然に

古事記物語その五


記紀は七世紀に天武に命じられて書かれた、創作物であるということをしっかりと念頭に置いて読む必要がある。
豪族各家から、膨大な資料を提出させ、それに基づいて書かれたとしても、その史料に偏向を加えて全く違ったものを作出すればもうそれは歴史ではなく創作物と言っていい。
古事記は、日本書紀と共に歴史書などと言うものではない。
歴史に名を借りた文芸作品とでも云うのかも知れない。
ギリシャ神話が前何世紀も前から語り継がれて、受け継がれているのと違って、我が国の記紀に書かれた神代の神話と称する部分は現実の世界にすり替わることを目論んだ歪な神話である。
ギリシャ神話の中では、神々が人間とかかわりのある出来事が随分描かれてはいるが、それはあくまで神話の世界の中での出来事で、現実の人間世界に神々が現れる事はなかった。
しかもその神話の世界の神々が宗教としても残ることもなかった。
我が国の神話の様に神々が天磐船に乗って人間世界に天下ってきたなどと言う現実離れした、荒唐無稽なものとは全く違った世界である。
世の多くの歴史書と言われるものは、時の権力者が己の権力が正当な権力の血筋であることを証するために作られたものと言っていい。
天智王の弟と言われる大海人が反乱して王位を簒奪し、王位に付いて吾は天武天皇なりと言ったところで、天皇などと言う新しい言葉に皆は戸惑うたことだろう。
その為にも、天孫の子孫であらねばならなかった。
天武は己が簒奪した権力を、正当化するために様々な試みをなす一つとして、天孫の子孫などを思いつき、神聖視させることに心を砕いた。
その為には当時存在した様々な伝承や、記述された資料は、すべて破棄してしまう必要があった。
己の正当性を後世に伝えるために、古事記や書紀の編纂を通して記録に残そうと計った。
その為に、豪族諸家に残った帝記や様々な記録を抹殺する必要があった。
 
我が国の神話が現実世界に天下ったなどと言う話の組み立ては、天武が目論んだのは伊弉諾伊弉冉からテンテルへの神話を稗田阿礼に語らせ、そのテンテルの天孫の子孫であることを強調し、己の神性さを作り出すことにあった。
それが三世紀以降五世紀までの史実資料が欠落している真相であろう。
 
記紀には、他の史実資料で補わなければ理解できない部分が随所にある。
その史実を記載した記録が破棄されているため、推測に推測を重ねなければつじつまが合わないのがこの記紀と言う読み物である。
だが、推測はあくまで推測であり、それが史実になり替わることはない。
 
扨、記紀辺りの記述によると、神武と言う男が辛酉、前六百六十年に橿原の宮で即位したなどと言う荒唐無稽な事が書かれている。
辛酉は必ずしも前660年とは限らない。
600年でも540年でも構わないし、720年でも構わないのだが、後世の阿呆な連中が、古ければいいと考えたのか、年代の語呂がいいと思ったのか、前記の年に決めてしまった。
辛酉は年次を顕す為の用いられる十干十二支の一つの組み合わせであり、六十年周期で巡ってくる数え方と言っていい。
中国に讖緯説と言う思想があって、画期的事件は辛酉の年に起こると言うものらしい。
編者等はそれを承知していて、神武の即位に利用したのであろう。
編者の意図としては、明確にどこまで遡るかは考えていなかった。
天孫の子孫としてできるだけ古くにまで遡るにしても、縄文時代など知る由もなかったろうし、どの様な時代であるかも知らなかった。
西暦六百六十年などとは後年の阿呆連が言い出した年代であろう。
皇紀2600年祭などと戦前の政府が神国日本喧伝するために躍起になって、何年もかけて準備を進めたという。
そもそも縄文時代ってどんな時代だと思っていたのだろう。
660年はわが国の縄文時代だということを考えると、馬鹿な奴もいるものだと笑いがこみあげてくる。
日本列島の縄文人は列島先住の自然人と言っていい。
まだ現在の日本人の先祖ともいえない人々が住んでいた時代である。
それらが、狩猟から農耕へと変わって弥生の頃になって漸く日本人の先祖と言えるものに成長していったと云ったと言っていい。
そんな自然人の縄文人神武天皇などとまことしや書かれても、はいそうですか、と頷けるわけがない。
何故ならその時期、我が国には大陸からの渡来の人々が続々と流れ込んできており、先住の縄文人の事は殆ど分かっていなかった。
その様な人々が高天原のテンテルなどと言ういわゆる神代の世界の事など伝承し、言い伝えるはずもない。
ギリシャやシュメールの神話がそれぞれの国の国史として用いられたなどと言う事を聞いたことがない。
神話は神話の世界でのみ生きているのがいいのであって、神話の出来事やその中の神々が現実世界の国史に影響を与えたなどと考えること自体が荒唐無稽なのである。
僅かにローマの建国がロムルスとレムスが前七百五十三年に建国したと言われているが、このロムルスとレムスの先祖は誰となると、トロイア戦争の生き残り、アイネイアスなどと伝承の世界に入り込んでしまう。
ロムルスとアレスがローマに流れ着いて、建国したとされるのが前753年であってもトロイア戦争終結が何ともはっきりしない。
トロイア戦争自体、実在の歴史ではあっても、シュリーマンの言うようにトロイア戦争終結が前十三世紀頃では、ローマ建国との間が随分と長いのが気になる。
その間のアイネイアスの子孫ロムルスがどの様な過程でローマに流れ着いたのか全く分からない。
ロムルスとレムスが果たして本当にアイネイアスの子孫であることを実証できるのだろうか。
伝説や神話を基にして現実の中に取り込むと自体が間違いなのであるが、それを敢えて行うと、真実味に欠けることを史実として扱わなければならなくなる。
 
 
どちらかというと縄文以降、我が国に渡来する人々が世界の様々な情報を持ち込んできたのが言い伝え、伝承されて、後年に伝えられたのを、参考にして神話の世界を作り上げたと考えたい。
記紀の神代の世界に描かれているのは、ギリシャ神話や旧約聖書の創世記のこの世のでき方と全く同じ発想である。
日本人は真似るのが上手いと、戦後頻繁に言われたが、古い時代からほとんど中国や朝鮮の真似事ばかりで我が国を作って来た。
人々を搾取する手段として、中国の律令などは真っ先に取り入れられた。
その記紀の基になった、豪族各家が提出したものは、後に天武の指図によって間違いがあると破棄され、残ったのが記紀だけという悲惨な結果になっているのが我が国の古代史。
記紀が作られる前に、蘇我氏が編んだと言われる天皇記と言うものが存在したと言われ、乙巳の変で焼失したとされたが、実際はこれなども後年、天武あたりに破棄されたと考える事も出来る。
何年もかけて語り伝えられた、天皇記が書としての存在が消滅したとは言ってもその精神、内容は残っていると考えた方がいい。
蘇我氏が滅亡したとは言っても、それは本宗家に限ってのことであり、他の蘇我氏によって天皇記が復活していないとは断言できなかろう。
古事記が面白いというのはギリシャ神話の面白さや、旧約聖書の創世記などの読み物としてと同じ意味合いで、古事記天皇の記述になると全く興味を削がれてしまう。
天皇の紀の中にも面白い逸話は挿入されてはいるが、取り立てて取り上げるほどの面白さのある逸話は少ない。
やはり一国の正史の中に神話などを持ち込んではならない。
神話の記述は歴史にはなり得ないのである。
 
我が国の神話の部分は七世紀になって記紀を編纂する時に創作された神話ともいえない、神などと言うものをモチーフにして創作された読み物と思った方がいい。
史実を記載した歴史書などとんでもないことで、一つひとつの史実を検証する事の出来ないただに読み物である。
嘘ばかりは書かれていないので十分に歴史書の役目を果たすという人もいるが、
どれが真実でどれが作り事なのか検証する術がない。
考古学などで検証される部分もあるが、それでも推測を働かせなければならないのであって、推測は推測でしかなく真実を示すものではないということを認識すべきである。
ただいえる事は、我が国の古代史、すなわち古い時代の歴史に類する書き物はこれしか残されていないと言うことも事実である。
 
それをいいことに、この間違った読み物を、我が国国の歴史であり、神の子孫が国を支配する神国であるなどと、国民を洗脳しようとするのが、国を支える政治屋でありまた官僚と名の付く輩なのである。
 
神話とは古い時代から延々と語られ、記述され、伝わってきたものを言うのであって、何世紀も後になって作られた話などは神話とは言わない。
七世紀に創られた記紀の基となった伝承や原資料を破棄してしまうなど狂気の沙汰としか言えない。
その欠落した空白の時代は他国の書に我が国が登場して、その記述から推測して史実を作り上げなければ為らないなどは、国辱と言っていい。
 
先にも書いたが、・・・・
古事記を編纂するにあたって、帝記と、本辞その他存在する史料を各地の豪族などに提出させた。
古い時代に帝記など諸豪族、各家に存在する様々な事が書かれた資料や言い伝えを記したものなどは有った。
古事記を編纂するに際して、豪族等から数多くの史料を提出させたが、後に検証されることを嫌って、間違った記述として、すべて破棄してしまった。
それは、古事記の序に安万呂が天武の言葉として書き残している。
中国の三国志などは陳寿が著わした史書であるが、どちらかと言えば簡潔に過ぎ、後に裴松之が他の諸書から資料を集め、異説や挿話などを補完した。
だが我が国にはその補完するための、資料がない。
それは膨大な数であったと言われることもあるが、それが伝わっていなでは、記紀を検証する術がない。
天武の狙いは将にそれであった。
無理やり神話などを作らせたのは、その天の神の子孫であるとし、己を貴き者とするための目論見であった。
七世紀ともなると、世界の出来事なども随分と持ち込まれてきていたことが考えられる。
五百年ごろから七百年ごろまでの間でのこの二百年の間に、我が国の中央集権化がほぼ出来上がったと言っていい。
五世紀末の大和朝廷の大王は諸豪族のまとめ役と言ってもいい程度の、祭祀の主宰を行う程度の役割であった。
六世紀にはいると諸豪族の勢力を弱めるように働きかけて、天武が天皇を標榜して、神聖視させるに及んで、中央政権下は一気に進み、強固なものになった。
即ち、天武が己を天孫の子孫とするためにも古事記には神話が必要であった。
その天孫の子孫の高貴さを武器に、中央集権化を進め絶対権を手に入れた。
その天武の目論見に添って古事記は書き進められていったと言っていい。
だが好事魔多し、古事記の完成を己の目で確かめる事は敵わなかった。
過ってギリシャの歴史の中で、吾はゼウスの子孫なり、貴き者なり、吾を崇めよなどと宣う支配者が居ただろうか。
天武は日本の民の緩いところはを巧みに突いた。
この作為と欺瞞に満ちた天武などと言う男によってではなく・・・・・
我が国は名もなき人々によって創られた国であって欲しかった。
 
参考文献
古事記       次田真幸訳      講談社額従文庫
日本書紀      宇治谷孟訳      講談社学術文庫
日本の歴史 エッセイ集 文芸春秋編    文春文庫
楽しい古事記    阿刀田高著      角川文庫
 


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