徒然の書

思い付くままを徒然に

命長ければ、恥多し


この言葉を知っている人の多くはおそらく徒然草を呼んで得た言葉として頭に刻んでいるのであろう。
だが実際は、兼好が荘子の天地篇に書かれた言葉を引用したに過ぎない。
荘子の天地篇に「男子則懼多、富則多事、寿則多辱、」という言葉がある。
長生きすれば何かにつけて恥をかくことが多い。長生きすれば恥多しなのだという。
 
男子多ければ則ち懼れ多し、富めば則ちこと多し、寿ければ則ち恥多し
これは聖天子といわれる尭が地方巡幸したとき、地方役人が尭のためにこの三つのことを祈ったところ尭は三つとも断った。
長生きすれば恥を掻くことが多くなると言って断ったという。
これら三つのことは、誰もが望むことであり、有り難い申し出であったろう。
尭にして見れば、見事な見識であったと言っていい。
だが荘子は違っていた。
荘子に言わせれば、天機浅し、なのだという。
荘子に言わせれば、断ると言うことはまだそれに拘っているからだという。
百万円やると言われれば、有り難く頂戴するのがよいのだという。
それが荘子流の生き方なのだろう。
我が国の政治屋や官僚に荘子の言葉を聞かせれば欣喜雀躍するかも知れない、いや間違いなくするであろう。
ところが、同じ長生きは恥多しという、ことについて語ったとしても、わが国のものの考え方とは少々違っている。
 
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の烟立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。
徒然草七段の書き出しである。その随筆の中に「いのちながければ辱おほし。長くとも、四十にたらぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ」・・・「もののあわれも、知らず成り行くなん、あさましき」などと言っている。
そう、兼好の徒然草であるが、これを随筆と言っていいかどうかは解らない。彼が生きた時代には随筆などという言葉自体もなかったろうし、彼の書いた徒然草が随筆にあたるかどうかも解らない。
この徒然草という文を何の目的で書いたのかさえも、はっきりとはしない。
おそらく鎌倉時代の頃まで、現代で言う随筆風のものと言えば枕草子ぐらいのものであろう。
兼好も、この枕草子に触発されて書いたものなのだろうが、その目的というか何のために書いたのかさえはっきりとはしないように思う。
ただ序段にあるように、つれずれなるままに、硯に向かって、心に浮かんでは消えていくとりとめのないことを書き綴ったのだろう。とすれば現代で言う随筆風と言うことになるのだろう。それにしても兼好の思考力と荘子の思考力には大きな差が見いだせる。
朝生まれて、夕には死すかげろうや、夏のみ生きて、春も秋も知らない蝉のような短命なものものもいる。兼好に言わせれば、人間ほど馬鹿みたいに長生きするものはいないと言うことになる、いずれは去らなければならないこの世にしがみついて生きていたところで何になる。つくづくと暮らすならたとえ一年でも長く感じるだろう。何時までも生きていたいと思うならたとえ千年生きても、一夜の夢のように短く感じるのだ。と
この世にしがみついて、見にくい老体を晒して何になる、長生きするほど恥をさらすことになる。四十前に逝くのがいい。
様々な理由を付けて長命を念じて、長生きをして、人間らしさを失っていくのは、もののあわれも知らぬ、あさましいものである。と
長生きが罪である如くに感じていたと言っていい。
などといいながら、己は七十近くまで老体を晒している。
兼好は己の長命をどのように感じていたのだろう、「ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあわれも知らず成り行くなん、あさましき」と思いながら己の生涯を閉じたのだろうか。
でないとしたら、この徒然草に書かれたものは、ただの思いつきを書き殴っただけのものでしかない。
当時とすれば、随分と長い間老躯を晒し、恥をさらしたことになるのだろう。
信長の好んだ敦盛の人生五十年下天の内を比ぶれば・・・・などを聞いたら長生きのしすぎだなどと言い出すかもしれない。
多くの人はこの信長の当時、平均寿命が五十年だと思っているかもしれないが、決して平均寿命であったわけではない。
 
 
 


 


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