徒然の書

思い付くままを徒然に

徒然に、徒然草を・・・


多くの人は、徒然草枕草子のさわりの部分を読まされて、学期末の試験で苦労した事だろう。
我の古文と漢文の教師が、いまにして思うと如何やら坊主だったような気がする。
がちがちの勤王派で、武家政治は朝廷を蔑にするからけしからん、授業の度に宣わったものだ。
朝廷だって百姓から年貢を搾り取って生きてきたんではないか、などと言った事があって、猛烈な勘気をこうむったことがった。
それ以来、常に質問をぶっつけてきて、判らないと猛烈に侮辱されたものであった。
そのお蔭で、へそ曲がりだったのであろう、漢文と古文だけは興味を持つようになって、折に触れて読む機会が増えたような気がする。
その中でも枕草子徒然草は何故か好みの部類には入る様な気はするが、徒然草は今一つと言う気がする。
そのつれづれ草だが、人生訓みたいなものが含まれていいる所為か、説教臭い感じが抜けない。
それでも坊主は坊主の様な考え方に落ち着いていくためだろう、人の生き方に係わる様な言い草が全編を通じている様に思う。
世の世相、日々人間の暮らしをつかんでいる様でもあり、合理的、論理的なものの考え方をする御仁だと思ったりもする。
人間の心理に通暁している様な言い草は坊主と言うものの務めであり、哲学的にものを考え、色んなことを知っているのだぞと言っている様でもある。
 
学校の授業はこの古典のほんのさわりを、おざなりに授業を受けるだけだから、兼好の思想や考え方まではつかめない。
ただ古文に興味を持たせればいいというだけの授業で、授業自体有益であったとも思えない。
覚えたのはあの冒頭の有名な言葉だけであったような気もする。
 
友を選ぶための心得のつもりで書いたのだろうが、兼好の言うことは何とも不可解。
同じような事が論語にも書かれているので、兼好の言う事と孔子の言うことの違いを比べるのも面白い。
 
人生のうちで、友はとても大切なものであるが、兼好は・・・・・
友とするにわろきもの七つあり。
一つには高くやんごとなき人、二つには若き人、三つには病なく身強気人、四つには酒を好む人、五つには武く勇める兵、六つには虚言する人、七つには欲深き人。
よき友三つあり。一つには物くるる人、二つにはくすし、三つには知恵あるとも。・・・・・徒然草第百十七段
これなど現代語に訳さなくてもそのままで通用する。
だが兼好は何故なのか理由は書いていない。
論語の季氏篇に友を選ぶ心得として書かれているものと比べると、この段は理解するには理屈も何も通用しない程阿馬鹿らしい。
あの馬鹿、何を思ってこんなことを書いたのだろうと思う。
物をくれる友は良い友、などは全く坊主らしい。
友を選ぶ基準として全くそぐわないものが多いからである。
何故なのか兼好は説明していない、何を考えてこんなものを基準にしたのか理解に苦しむものが多い。
 
論語の友を選ぶ心得などは、季氏篇に書かれているが、この辺りになると論語の記述はもう孔子も逝ってしまった後、孫弟子たちは孔子から直接接して教育を受ける機会もなくなったとき、孔子の言葉をまとめて、教義として箇条書きにしたものを伝える様になっていったのだという。
 
論語、季氏篇四章には次のように書かれている。
孔子曰く、益者三友、損者三友,直きを友とし。諒を友とし、多聞を友とするは益なり。
便辟を友とし、善柔を友とし、便侫を友とするは損なり。
 
諒は誠のある事、誠実な事
便辟は体裁のいいこと
善柔は人辺りにいい態度や言葉で接する事
便侫口先の達者な事
 
孔子曰く、ためになる三種の友人、損になる三種の友人。
正直な人を友とし、誠実な人を友とし、博学な人を友とするのはためになる。
見かけがいいだけの人を友とし肌触りがいいだけに人を友とし口先の上手い人を友とするのは損だ。
 
孔子の言葉として益友、損友と言う言葉は今でも生きている。
友を選ぶ心得として、現代でもそのまま生きている。
孔子が逝って以来、。孔子の言葉は次第に教条化され、教訓を箇条書にされ、教訓を暗記する学習法になって行った
孔子から直接教わるということはなくなってしまった。
 
この後の章も孔子の言葉が箇条書きにされたものが延々と続く。あと一つだけ記して参考に・・・・・
益者三楽、損者三楽、礼楽を節とすることを楽しみ、人の善を道うことを楽しみ、賢友多きを楽しむは、益なり。驕楽を楽しみ、佚遊を楽しみ、宴楽を楽しむは、損なり。
 
礼と音楽を節度を持って行う楽しみ、他人の美点を称えるる楽しみ、優れた友をたくさん持つ楽しみ。これらはどんなにためになることだろう。
おごり高ぶる楽しみ、家を外して帰ることを忘れる楽しみ、酒食荒淫の楽しみ。これらはどんなに損になることだろう。   論語  貝塚茂樹訳注
 
兼好もこの孔子のことばを知っていたのだろう。
自分なりにアレンジして人との付き合いの好悪を簡潔に書いたのだろうが、いまの時代に照らして考える時余りにもピントがずれている。
だが兼好の言う友としてはいけないとした人々は何故だろうと考えさせられてしまうものが多い。
ただ兼好は、同じ心を持った人としんみりと話していると面白いことでもつまらないことでも隔てなく話しているのはうれしいことなのだが、そんな人はいるはずもないなどと言っている。
この兼好っていう男、この程度の男だったのかと思う事がある。
互いに、心の内を見せる事の出来る友がいないというのだから、寂しい人生であったのだろう。
相手の云うことに逆らわない様に気遣いをして向かい合ってると、対話の興などないに等しいのだから、己ひとりでいる様なものだと嘆いている。
厭世的な境地に陥っている、こんな時の兼好は全く有害無益な存在。
自分と同じ様な考えを持っていない相手では本当の意味の友とは隔たったところがある様に感じられるのが残念だと言っているのだろう。
それぞれの性格の違った人間が全く同じような考えでなければ友にできないなどとは厭な性格の坊主だと思う。
己の持つ価値観に合う様なものはいないと、おごり高ぶっているのだろうか。
通り一遍の話をしているのならいいけれど、自分と同じような考えを持っていない様な相手では、本当の意味の友とは遥かに隔たった所にあるのが残念だと感じる、などと言っているのはは、やはり人を見下した、驕りとしか感じられない。
同じ考えを持った気の合う友達と言うのはなかなかいないものだ。第十二段
当たり前のことを賢しら顔に云うなど、坊主としての修行が足りないって言いたくなる。
此処でも書いている様に兼好ってとても偏屈な性格をしている様に感じる段が随分あるのが、この随筆が全面的に好きになれない理由なのかもしれない。
何から何まで同じ考えを持った友などいるはずもない。
一人一人の人間が違った性格をもち、価値観も違っているのは当然な事で、全く同じ考えの人間など話しても面白くもなかろう。
やはり坊主は坊主でしかないということなのであろう。
坊主って言っても、人間が分かっているというわけではない。
ただ人間っていう生き物には業と言うものが絡みついて、がんじがらめになっている生き物だという事・・・・・
だからその業を一つ、一つ外すようなことを話せば、なるほどと人々は頷く。
自然の在り様が法の姿、諸法の実相、つまり物の本当の相なのである。
それ故に人間と言う生き物は、様々な法の実相と言うものを、目にすることが出来ないでいる。
本当の相を見ないで、いつも色眼鏡で物を見ている。
目先の事に捉われて区別したり、分別したりして、喜んだり悲しんだりしている。
だから、良き友を選ぶと言ってもよき友、悪い友を、選ぶことは重要だが、その基準はなかなか難しい。
と言っても、そのよき友とは言っても、会うは別れの始めともいう如く、永遠に続くとは限らない。
どちらが原因で離れなければならなかったのか、それさえもはっきりとは分からない。
 

 
参考文献
論語              貝塚茂樹訳注                                中公文庫
徒然草                今泉忠義訳注                                角川ソフィア文庫
 
 

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