徒然の書

思い付くままを徒然に

人間の心

人間の心ほど不可思議なものはなかろう。
心の持ちよう一つで、人生愉しくもなり、鬱陶しくも成る。
人間の心は、外界の様々な現象に応じて、常に変化している。
心の姿や形はかくあるべきものという、基準があるわけではない。
心の働きが有るとすれば外界に惹起する現実を感受する作用を担っているにすぎないと言える。
眼、耳、鼻、舌、身などを通じて、外界から何事かを感受するとき、心が己自身予測さえもしないような思わぬ躍動を始める。
この心の始末に負えない躍動をどのように処理すればいいのか、ほとんどの人間は知らない。
 
心こそ 心迷わす 心なり 心に心 心許すな
 
と詠ったのが、鎌倉の頃幕府の執権北条時頼である。
 
様々な喜怒哀楽の妄想に囚われて、めまぐるしく変化して止まない心。
こんな心というもののめまぐるしい変化に真面目に付き合っていたのでは神経がまいってしまう。
とは言っても、この世で息をしている限り、息を止めるまで付き合わされてしまう。
その心とどのように付き合っていくかが、人間という生き物の生き方や、ものの考え方にとって大変重要なことなのである。
心などという正体不明な摩訶不思議なものを語ろうとすると、ついつい心理学的なものか、あるいは仏法など宗教的なものの方へ傾いてしまう。
仏教の坊主など、特に禅坊主などに言わせると、それは自分の仏性や本来の面目、本領を如何に発揮するかにかかって居るというだろう。
ではここで坊主のいう、仏性、面目、本領とは何か。
本来の面目とは、禅などで使われる言葉で、自分の本当の姿、本当の心というような意味に使われているらしい。
この様な小難しいことを言っても、凡人たるものには何を意味するのかさっぱり解らないというのが、本音であろう。
よく言われることは、心に浮かぶものに拘ってはいけない、次から次へと流して棄てよと言うことを聞く、心にとどまるものは何もない。
それ故にこそ、自身の心こそが心を迷わす原因である、だからこそ自身の心にこそ心を許すなよと沢庵は言うのであろう。
そうなるためには、執着する心を捨てよと言う、心が空っぽというのは執着する物が何も無いということ。
捨てて、捨てて、徹底して捨てまくる。心を心に留めなければ、心をいかようなりとも変化させる事ができる。それ故に何事にも対応できる、ということなのだろう。行く雲、流れる水、行雲流水そんな境地になるのが、悟りと言うものなのかも知れない。
それは心で感じ執った、様々な感情や出来事に囚われることなく、空っぽのままで、人生を生きていくことであるというだろう。
心随万境転  心は万境にしたがって転ず我ら凡人でも
この後更に続くのだが、こんな言葉を発するのは禅坊主の専売特許であろう。
心を空っぽにしたまま人生を生きていく、これしか心をコントロールする法はない、と言うものも居る。
とはいうが、人間という生き物は如何なる修行を致そうと、空っぽのこころ則ち無心になるなどということはあり得ない。心を空っぽにするなどということは、悟りきった面をしている坊主にだってそうそう簡単にできるものではない。
心が感受したものに、ついつい拘って、何時までも心にとめておくのが、人間の習性と言えるのかも知れない。
 
般若心経に心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖・・・・という言葉があるが、これは存在の本質は空っぽであり、我という概念が払拭され、世界と自分とを隔てる虚構が崩されたと認識とするのは、わだかまりを抱くことが何もなく、清々しいということになろうか。
そもそも、悟ったなどと言うと人間どのように変わる。
悟ると心を空っぽに出来るのか、心を自由にコントロールすることが出来るのか、否で有ろう。
心を空っぽにすることが出来た状態を悟りという言葉で表現しているに過ぎなかろう、と思う。
我ら凡人でも、日常忙しく立ち振る舞っているときは心は空っぽになっている。
禅というのは何も座ってするだけのものではないと言うことであろう。
先の禅語のの続きを序でだから記してみれば、人によっては心に響くものを感じるかも知れない。
 
心は万境に随って転ず
転ずる処じつに能く幽なり
流れに随って性を認得すれば
喜びもなく、また憂いもなし
 
この禅語は摩拏羅(まぬら)尊者の伝法の偈である、といわれている。
この言葉の意味を本当に理解することはなかなか難しい。
 
心などと言うものを考え出すと際限がない。
 
 
 

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