徒然の書

思い付くままを徒然に

年年歳歳花相似たり

唐詩選のとてもよく知られた詩の一説である。

洛陽に咲く桃李の花

飛び来たり飛び去って誰の家に落ちる。

年年歳歳花相似たり、年年歳歳人同じからず。

 

桃李の花が風に吹かれて舞っているが、いったい誰の家に落ちることやら・・・

同化、今が盛りの若い人々よ、年老いた白髪頭の老人を憐れんでくれたまえ、と白頭翁は憐れみを乞うているが、今の日本この翁の願いはとても聞き届けてはくれまい。

あるブログに、日本という国は年寄りには冷たい国だ、とつくづくと述懐していたが、その扱い方を一つ一つ上げていけば十や二十はすぐに上げることができる。

まさに彼が感じていたような国であろう。

だが、江戸のころまではまだ年寄りを大切にしていたように思う。

明治になって、虐げられていた下級武士や足軽輩が実権を掌握すると、儒教なども追いやられ、己の不遇だったころを取り返すがごとき、悪政で庶民をいじめ始めたころから、日本は変わってきた。

政治が率先して年寄りいじめをしているから、勢い民もそれに追随するのだろう。

花を愛でても、その花を来年も見ることができるだろうかと、思いながらシャッターを落とすことが、近年の習性になってしまっている。

いじめたければいくらでもいじめるがいい、己は年を取らないと思っている馬鹿な輩だろう。

己が今の我の年になるころは、もっと年寄りいじめは進んでいるかもしれない。

その時は年寄りに冷たい国だと泣き言を言わないことだ。

今コロナが盛んに人間の淘汰を行っている。

年寄りが罹ると命に関わるというが、ここまで生を楽しんできたからにはこの世には何の未練も感じていない。

特に日本という国の年寄りが感じている、年寄りいじめの国で長生きしても、後悔が残るだけである。

この世に別れを告げる時は本を読みながら眠りに就くが如くに、眠ろう。

ただ残念なのは、コロナのおかげで、去年のサトザクラが見納めになってしまいそうなことである。