徒然の書

思い付くままを徒然に

写真って何だ


今朝方は結構強烈な雨が降ったようだ。
外気が冷たそうなので何気なく、カメラを手にして、散策を決め込んだが、花々に付いた雨滴が美しく花を飾っていた
絵画だとその景色を見たとき、己がどのように描きたいのかそのイメージがどんどん膨らんで頭の中いっぱいに広がっていくのだろう。
小学生の頃、我が小学校の近くに桜の名所があった。
桜の時期になると、そこへ写生に行くのだが、皆それぞれ様々な描き方をしたいる。
私は、画面一杯をピンクで塗りつぶし、所々に茶色の線を何本か引いた。
それが私の満開の桜の写生図であった、というより私にはそのように見えてのである。
それで学校に帰ってから、みんなの前でこんな馬鹿な画を描いた奴がいると頭を小突かれ、廊下に立たされたことがある。
そのとき思ったのだが、この教師は教師の資格がない馬鹿な野郎だと随分と頭にきたものだ。
今の世といえども、学識教養ゼロなどという教師がいない共限らない。
私なりに、ピンクの色を出すのに、随分と苦労をしたつもりなのだが、描いたものの感覚を理解できない、無能な教師というのも困ったものだと、そのときは本当にそう感じていたものだった。
ものを見るときの人間の感性は人それぞれ、十目、十手である。
それ以来、写生の時間、写生をしたことがない。というよりも画を描いたことがないのである。
それが大きくなって写真に憑かれたた原因なのかも知れない。
もともと写真などというものに上手下手は無いと思っている。
撮る人はその花を見つめた、それが美しいと思って撮るのである。
美しい光景にであえばそれがその人にとって、そのときの美の頂点である。
それをそのままその人にとって最高に美しい花であり、景色なのだ。どのように切り問うかもその人の感性なのである。
一つの花を見て、どのように撮ろうかと花の周りをぐるぐる回ったり、下から眺めたり、上から眺めたりして、撮った写真よりよほど美しい。
その様な画は何故か作り物のような感じがして仕舞う。
仕上がった画を眺めて、もう少し左右、上下に移した方がよかったなと思うこともあるが、それはその画を眺めたときの感覚であって、とったときの感覚では無い。
素直に撮った写真というのはその人の心の表れであってとても美しい画だと思う。
よく、日の丸写真は悪い、黄金分割に沿った構図は美しいなどという人もいるがその画のの持つ雰囲気と合うかどうかだけの問題であって、必ずしも当てはまるわけではない。
花の持つ表情は花そのものの美の表情であって、人間という生き物の持つ腹の中に一物を抱えた醜悪な表情とは違う。
だから私は、人間という生き物の写真はほとんど撮ったことがない、自分の家族以外は。
だから花は、自然の風景は、見るものに感動を与える美しさを持っているのである。
 

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