徒然の書

思い付くままを徒然に

韓非とマキャベリ

韓非とマキャベリ

歴史は変化するという史観、それに伴う政治の変革は不可欠だという思想。

それまでの儒教の世界の思想を根底から覆し、歴史の変化に進歩の概念を持ち込み、政治変革をもたらし、新しい秩序を作り上げた政治学者と謂えよう。

韓非なるもの、・・・刑名法術の学を喜び、而してその本を黄老に帰す。

韓非子は・・・好んで刑名と法術の学を修めた。

その学の根本は黄老の学と思想である。

刑名法術の学とは法治準縄と飭令数治を極める学の事で、法治体系を確立して、法令を的確に定め、その法令を厳格に執行して、効率的な行政を期する政治学あるいは行政学の事である。

それが淵源とする黄帝の学とは易経に見える開物成務の学の事で、要は万物の志を開通して、天下の務めを成就し、以て天下の道を覆う学問の事である。

黄帝伝説に仮託された、伝統的な治世学である。

中国の建国伝札は聖人、神農氏、の出現による王道楽土に始まるが楡罔は暴虐無道の王で楽土の秩序を乱した。

それを撃ったのが軒轅氏で、さらに乱をお越した蚩尤を撃って帝位についたのがすなわち黄帝である。

韓非の哲学の根底には老子などの思想がその根底に流れている。

韓非やマキャベリの生きた時代は大国の利害対立が激しい戦国の世と言っていい。

その周辺の小国はその大国の争いに巻き込まれ、汲々として合従と連携を繰り返していた。

 

そんな時代君主として尊敬を得るにはどうしたらよい。

ここではマキャベリについてだけ書くことにする。

韓非については諸子百家でまだまだ残っている。

或る君主が真の味方であり、真の敵であるとき、或る一方に対抗して他の者に味方することを躊躇うこともなく公言するとき、彼は尊敬を受けることになる。

この方策は中立でいるより常に有益である。

近隣の権力者が戦いを起こした時勝利者は恐るるに足る存在であるか否かである。

この両者のいずれの場合であっても自らの旗幟を鮮明にして、堂々と戦う場合が常に有益であると思われる。

それは、もし旗幟を鮮明にしなければ勝利者の餌食になり、敗北した側はこの成り行きを喜び、留飲を下げることになる。

そして保護を求めるにも名分がなく、避難場所を与えてくれるひともいない。

何故なら勝利者は逆境に在る時援助しなかったような、疑わしいものを味方にしようとはしないし、また破れたものは剣を手にして自らと運命を共にしなかったようなものは受け入れはshないからである。

何時も起こることであるが、味方でない物は中立を要求し味方である物は武器を執るように要求するものである。

優柔不断な君主は現前の危険を回避しようとして、多くの場合中立政策を執り、多くの場合滅亡する。

これは君主論二十一章に書かれた一部であるがこの様な下らないことの羅列が君主論の内容なのである。

とは言え、現代においてもこの様な無様政治屋がはびこる国はある様である。

さらに、二十七章にはこんなことを書いている。

君主たるもの、自分の領民を、結束させ、忠誠を誓わせるためには、冷酷だなどの悪評は何ら気に掛けるべきではない。

何故なら、余りに憐み深くて、混乱を招き、やがては殺戮や略奪をほしいままにする君主に比べれば、冷酷な君主の方が、見せしめの残酷さを示すだけで、ずっと憐み深い君主に見えるからだ。

後者の場合、君主が処刑を言い渡すのはただ一部のものだけを傷つければ済むが、前者の場合は全領民を傷つけてしまう。

同じ章で、一つの議論として君主は恐れられる方がいいか慕われる方がいいかと問題を提起して、君主は恐れられる方がいいと言っている。

ただ憎しみを持たれてはいけないというのだが・・・

一般に次のように言いうるからであると、その理由を書いているのだが、人間は恩知らずで、気が変わり易く、偽善的で自らを偽り、臆病で、貪欲である。

君主が彼らに恩恵を施している限り、彼らは君主のものであり生命、財産、血、子供を君主に対して提供する。

しかしこれは既に述べたように、その必要が差し迫っていない場合の事であり、その必要が切迫すると彼らは裏切る。

従って彼らの言葉に全幅の信頼を置いている君主は他の準備を整えていないために亡びる。

それと言うのも魂の偉大さや高貴さによるのではなく、物質的な報酬で得た好意は買うことは出来るが、所有していて必要な時に費やすことは出来ないからである。

そして人間は恐れている者より愛しているものを害するのに躊躇しない。

何故なら好意は義務の鎖で繋がれているが、人間は生来邪悪であるから、いつでも自己の利益に従ってこの鎖を破壊するのに対して、恐怖は常に君主と一体不可分である処罰に対する恐怖によって維持されているからである。

君主は好意を得ることが出来ないにしても、憎悪を避ける様な形で畏れられなければならない。

もう一つの翻訳を比べるとところにとっては随分と違いがあるのだが、この部分の翻訳はそれほど困難な部分ではないのだろうと思うが・・・・

そもそも人間は恩知らずで、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険を振り払おうとし、欲得には目がない物と。

その為にあなたが恩恵を施している内は、皆があなたの意のままになり、血液も、家財も、生命も、子供たちさえも捧げてくれる。

先のも述べたとおり、それ程の必要性が、まだはるか先のときはである。

 

そして、いざ本当にあなたに必要が差し迫ってくると、きまって彼らは背を向ける。

そこでかれらの口約束に全面的に乗ってしまった君主は、他の準備にまったく手を付けていないため、亡んでいく。

偉さや気高い心に引き付けられてではなく、値段で買い取られた友情はただそれだけのもので、何時までも友情があるわけではなく、すわと言うときの当てにはならない。

他方人間は恐れている人より、愛情をかけてくれる人を容赦なく傷つけるものである。

その理由は、人間はもともと邪まなものであるあるから、ただ恩義のきずなで結ばれた愛情などは、自分の利害が絡む機会は遣ってくれば、たちまち断ち切ってしまう。

外国文の翻訳の上手下手は著しいものがあるが、翻訳物を買うときは余程気を付けなければ、読むのに苦労することになる。

哲学的なものに掛かっては全く日本語としての意味を為さない様な翻訳も多く見える。

閑話休題韓非やマキャベリは人間不信で通っているが、この君主論を読む限り、人間不信と言うものとは全く違う。

従って、韓非の人間不信とは全く質が違って同列に扱うことは出来ない。

マキャベリは人間不信と言うものではなく、人間に対して少なからぬ憎悪を感じている様に思う。

マキャベリの心の中は人間に対する悪意で満ち満ちているのだろう。

己の経てきた生き方を見ると人間に対する不信と言うよりも悪意の方が遥かに強い。

この著作が当時すぐにも世に出なかったのは人間に対する悪意に満ち満ちていたのを人々は感じ取ったのであろう。

人間不信で同列に並べられては韓非が迷惑する。

韓非の人間不信は質が違う。

韓非は当時の中国哲学思想の祖老子などの影響が多分にあるが、マキャベリなどはただの戦国時代の人間と言う生き物ののえげつなさのあらさがしに徹した書と言うべきなのだろう。

元々、共和政府の書記官であったのがメディチ家が取って代ると、それへの手土産代わりとして、執筆したものであったという。

ただの人間と言う生き物のあら捜しなどに興味を持つほど当時の人々はのんびりした生活をしていたわけではなかろう。

君主への阿りも当然入っている。

現代政治学の祖などとは人間と言う生き物っておかしな生き物だと思う。

こんな君主論政治学などと位置付けるほど人間の眼は曇っているのだろうかね。

確かに我が国の政治屋のやりそうなことも取り上げられてはいるが、時代が変われば事も変わる歴史観は必要ではあっても、所詮人間と言う生き物の考える事は大本に於いは変化のない物なのであろう。

 
 
参考文献
君主論      池田  廉著     中公文庫
君主論      佐々木 毅著     講談社学術文庫
 韓非子     冨谷 至著      中公新書



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