徒然の書

思い付くままを徒然に

孫子の兵法


遣唐留学の吉備真備が多くの教書と共に孫子兵法書を持ち帰って以来、兵法書に価値を見出した者たちによって用いられてきた。
古いところでは平安時代初期に坂上田村痲呂が蝦夷と戦った時にこの兵法を使ったと言われている。
兵法に限らず如何なる名著も、それを丸暗記しても何の役にも立たない。
孫武が呉の闔閭に仕えて、大将軍としてと楚と戦った時、孫武に全幅の信頼を置いてすべてを任せていた。
楚が敗れて楚の京に入城して以後、闔閭が女の華美におぼれて後、故国へ帰ることを拒んで以来、孫武の進言を聞かなくなった。
阿呆息子の夫差は孫武の兵法を丸暗記しているから、孫武は必要ないと孫武を切り捨てたが、越に攻め込んだとき孫武の忠告を聞かずに戦ったため、闔閭は重傷、死に至った。
その夫差も、佞臣に操られ折角捕えた越の勾践を生きながらえさせたため、臥薪嘗胆、越の勾践に滅ぼされてしまった。
兵法を丸暗記して、理解したつもりでも阿呆な脳みそではその書かれていることが理解できなければ、兵法の真意を遂行することは無理なのである。
我が国でも、田村麻呂が活用して、、蝦夷と戦った。
決着がつかず、和解することになって、蝦夷の棟梁阿弖流為が田村麻呂と京に同道するのだが、薄汚い朝廷によって阿弖流為は処刑されてしまう。
その朝廷の薄汚いDNAが後世まで遺伝子として伝わり、昭和の敗戦時まで折に触れて顕在することになる。
田村麻呂が蝦夷と戦ったのち、二百数十年も後陸奥の地に安倍一族が興って、勢力を蓄えていた。
朝廷が派遣する国守と言うのが、朝廷を構成する薄汚い公家どもで、国府に於いて民草を虐め、私腹を肥やす輩が大半であった。
その国守の報告を真に受けた朝廷が、安倍一族に対して兵を起こした。
その時派遣された武将が、軍神と言われた源義家の父、源頼義であったがこれがまた凡庸な将で、十二年目にして初めて姦計を巡らし安倍一族を戦いに引きずり込んで、壊滅することになる。
これが後九年の役である。
その後、源義家藤原清衡を助けて、奥州を平定するが、朝廷は義家の戦功をを認めなかった。
義家の勢力の拡大に恐れを抱いた結果なのであろう。
こんな処にも朝廷の薄汚い性格があらわれている様である。
その義家が孫子の兵法を弟の新羅三郎義光にも伝えた。
義光は甲州の国守となるが、その地で武田氏と名を変えた。
義光が始祖となる武田源氏が家伝の孫子の兵法を基に創りだしたのが甲州流軍学として、後の世に伝わることになる。
その軍学を活用したのが信玄で、風林火山の旗印は世に知られている。
孫武兵法をベースにして形を変えた様々な兵学が研究されて用いられてきた。明治の時代を経て、昭和の時代にも軍の様々な機関で研究実践されてきたが、孫武の兵法を真に理解し活用できる人材は上級将官には育たなかった。
江戸時代に、孫子の兵法を基にした様々な軍学が派生したが、それを活用できるほどの人材に育ったものはいなかった。
孫子の兵法は明治以降も研究されたが、兵法自体は研究と言うよりも、それを実際に運用できる人材に育つかどうかが問題であった。
武士社会では剣術が何派も派生しているが、その奥義を窮めるものが殆ど限られているのと同様、兵法に於いても、孫子の兵法を極める人材が育つのは殆どなかったと言っていい。
昭和の大戦の時を考えても、孫子兵法を実践すれば戦争に突入することは有り得なかった。
無能な政治屋と軍部の総帥の無能が大戦を引き起こしたと言っていい。
彼らが行った孫子の兵法の研究は全く無駄であったということである。
軍隊に限らず民間に於いても、真に優れた頭脳を持って、己の力で上級へと駆け上る人間は少ない。
その様な佞臣が上官として兵法を学んでも、それを活用できるだけの頭脳と力量を備える事は不可能で、兵法書に書かれたことを実践で用いる事は殆ど不可能と言っていい。
孫武兵法書に書かれているのは中国の古典の中でも飛び切り簡潔な文章で書かれており、その真意を理解するには相当の思考能力を必要とする。
我が国に兵法書が持ち込まれて以来、随分と研究され注釈書なども書かれたと言われているが、それを実践に用いてどれ程の成果を上げたか、真意を理解し実践に活用できた者がどれ程いたかは最大の疑問である。
我が国に於いては武家の時代から孫子の研究に余念がなかっらが、孫子自体は簡潔明瞭で研究と言っても頭の中で思い描いてみても、理解したつもりになってしまう。
それはただの絵空事で実戦で役に立つとも思えない。
 
謀攻篇にある誰もが知ってる、彼を知り、己を知らば、百戦して殆うからず。
実に簡単よく理解できる。
だが、相手を知ることは、相手の事をすべて知る必要がある。
如何したらそれを知ることが出来るか・・・・・
これは並の者には難しい、とても不可能と言っていい。
全部じゃなくても表面上でもいい、なかなか難しい。
けれども、安易な考え方しかできない輩には、すぐわかったつもりになっちゃう。
こんな輩は次の己を知るということについては、何もかにも判ったつもりになっている。
多くの人は自分の事は判ったつもりでいる。
だが、自分の事は何にも分かっていないのが人間と言う生き物の悲しさ。
これでは百戦殆うからとは言えなくなってしまう。
それどころか・・・・・
不知彼不知、毎戦必殆
と言うことになってしまう。
 
先の太平洋戦争は孫子の一番初っ端兵とは国の大事なりの意味も解らず、然も相手を知らず、己を知らない状態で、戦いに挑んだ。
阿呆の典型を実践して見せた。
明治以降に於いても、軍部に於いて盛んに研究したらしいのだが、頭の固い輩がどれ程研究しても、実践で役に立つとも思えない。
実際研究に研究を重ねたという孫子を本当に理解して薬籠中のものにしていたならば、太平洋戦争自体起らなかった。
太平洋戦争は孫子の言う勝つための条項をすべて無視した結果であったことを、当時の政治屋と軍部の総帥は肝に銘じるべきである。
戦後自衛隊いや当時は保安隊であったか、その発起となった幹部は旧軍隊の上級幹部で占められていた。
そんな敗戦の原因を作り出した阿呆が、またぞろ軍隊を作り上げようとした。
そして今、我が国ではどれほど近代戦の兵器を備えようとも、戦争には絶対勝てない条件があるということを忘れてしまっている。
昭和の太平洋戦争においても、政治屋や軍部の最高責任者に頭脳明晰なものが存在していたら、また現場の指揮官が本当の実力で指揮権を手に入れた人物であったなら、あれほど惨めな敗戦を味わうこともなったであろう。
孫子に書かれた簡単な言葉を実践することのむずかしさを実感すべきである。
孫子の兵法の極致を極める事は不可能に近いと言っていい。
 
戦後会社組織などでも孫子の兵法を見直されて活用されている様であるが、書かれたことを理解しても、その場面に直面した時に、その兵法をどれほど的確に適用できるかは、その人の頭脳の明晰さと思考能力に掛かっている。
コネや阿りで昇級した者にとってはたとえ兵法を丸暗記していたとしても、それを実際に活用するだけの能力はないであろう。
戦いの場合、指揮官がその様な無能者であれば、部下の命は風前の灯であり、命が幾つあっても足りないと言っていい。
経済社会なら競争相手に出し抜かれて、仕事を失うのが目に見える様である。
一般社会では、無能な上司の下に付いたものは苦労するというのはこのことを指しているのだろう。
我が国に於いては、戦争を前提とした孫子の研究は全く無駄であるということを肝に銘じるべきである。
 
孫子孔子老子とほとんど同時代の人間で、老子などのものの考え方と共通する部分も随所に見える様な気がする。
我が国での孫子の研究は平和な世の経済活動の在り方に活用研究することを最大の目的とするべきであろう。
あるいは、優雅に生きていくための指針とすべきである。

そろそろ孫子の兵法の各論に入ることにしよう。
 


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