徒然の書

思い付くままを徒然に

諸子百家


中国の黎明期、伝説の黄帝からかの尭舜禹の王朝を経て、殷の紂王を滅ぼし、新たな王朝を立てたのが周である。
この周王朝も時がたつにつれて、異民族の攻勢に合い、封建諸侯との折り合いも悪化し、内部矛盾が強まってくる。
異民族の犬戎の侵攻で、周王が殺されて、都を捨てざるを得なくなった。
殷の紂が悪徳の権化であるならばそれを倒した文王、武王さらに続く周王たちは美徳の政を行う聖者でなければならない。
この文王の徳治世時に心酔したのが孔子であった。
雑学博士の孔子の思考の源泉は一にも二にもこの文王の徳治政治に負うている。
周が東に都を移し、東周と呼ばれる時代を区分すると春秋と戦国と呼ばれる乱世の時代であったといわれている。
その乱世を周の文王の徳治の時代に戻すことが、天に命じられたおのれの使命だなどと思い上がっていたのが孔子であったが、徳治を標榜する理想主義者の孟子はそれ以上であった。
 
春秋時代と呼ばれるのは孔子が携わったといわれる、魯の簡略な史書が春秋と言われていたところから、そのように呼ばれるようになったといわれている。
東周の時代はこの春秋時代とそれに続く戦国時代に別けられ、秦による全国統一まで続く。
この春秋時代に現れたのが孔子をはじめとする百家とも言われる無数の思想家たちであった。
天によって命じられたと自負する孔子は尭舜に始まる文王の徳治政治に戻すための方策を様々に考えていたのであるが、理論体系として構築する程の能力はなかったようである。
戦乱の時代にただ、仁と礼を強調するだけの孔子の思想、能力は認められるはずもないことに気が付かなかった。
文王の時代の徳治による支配を天から命ぜられたのが己だという思い上がった思考回路では、現実の乱世で通用するはずもない、ということに思い至らない。
その孔子の死後百五十年ほど後に現れたのが孟子であった。
孟子孔子の弟子の弟子であった様で、孟子孔子と違って理論武装した思想家として世に出ている。
とは言っても、戦国末期の乱世であってみれば、道徳主義であり王道政治を標榜し、妥協を許さない理想主義者の思想では、数年の間政治に関与できたとしても、生涯を通じて理想の政治を作り上げるための地位を与えられることはなかった。
孟子にとってのあるべき理想の世界が何故招来しないのか、天は何故努力と期待に応えてくれないのかと思う事は、孔子よりもはるかに強かったのであろう。
だが孔子のように、天は我を見捨てたかなどとの恨み言は言わず、その理由を説明しようとしたのであろうか、告子章句下に次のように述べている。
孟子曰く、瞬は畎畝発り、・・・・・故に天の将に大任を是人に降さんとするや、必ず先ずその心を苦しめ、その筋骨を労せしめ、その体膚を餓せしめ、その身行を空乏せしめ、その為さんとするところを拂乱せしむる。
 
心を動かし、性を忍ばせ、その能くせざるところを曾益せしむる所以なり。
・・・・・個人にせよ国家にせよ憂患の中にあってこそ、初めて生き抜くことが・・・・・・等と説明しているのだろうことが書かれている。
 
孔子の雑学の集積とはだいぶに違う様な気がする。
孟子について書き始めると、彼の理論の大本になっている、人は生れながらにして善の心を持っている、いわゆる性善説について述べる必要があるのだが・・・・・
孟子の言う性善説には随分と多くの難点があり、孟子の理論を以てしてもすっきりと理論構成は出来ない。
元々人間と言う生き物について善を語ろうとすること自体に無理がある様な気がする。
後に出てくる。韓非の言うように、人間と言う生き物は利によって動くからである。
とは言っても、荀子の様に人間の性は悪であると考える方がある程度は説明しやすい様な気がするが、これとても難点がないわけではない。
人間と言う生き物を考える時、韓非の様な考え方がぴったりとするような気がする。
孟子性善説、人は生れながら善の心を持つと孟子は様ざまな具体例を挙げて論じてはいるがどれ一つとして人間の性を説明したものは見当たらない。
性とは生まれながらの人間の気性を言っているのか論じる者によって、その意味が違う様な気がする。
孟子自体も性と言うものの意味をはっきりとは言い表してはいない。
都合のいい時に生れながらの本性などと言ってみたりするのだが、必ずしもそうとばかりは言えない様に表現しているところがある。
厳密に言えば、生れながらの人間の性を善だ悪だと証明すること自体が不可能なのである。
人間の性の善悪など、孔子には議論の後が見られない。
性善説などと言う考えを言い出したのは、孟子を嚆矢ととするのではなかろうか。
孟子性善説と言われるのは公孫丑章句下に書かれている。
人皆、人に忍びざるの心あり、として不忍の心が性を善なら占めると言っているのである。
そののちに惻隠の心へと発展して述べられているが、果たして性善説を十分に理論づけることが出来るだろうか。
孟子曰く、人皆、人に忍びざるの心あり。先王人に忍びざるの心ありて、斯ち人に忍びざる政あり。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行なわば、天下を治る事、これた掌上に運らすべし。人皆、人に忍びざるの心ありと謂う所以の者は、今、人乍に儒子の将に井に入らんとするを見れば、皆、怵惕、惻隠の心あり。交わりを儒子の父母に内いれんとする所以にも非ず。・・・・・・
是に由りてこれを見れば惻隠の心無きは、ひとにあらざるなり。
この後延々と同じ調子で、羞悪の心、辞譲の心、是非の心のない者は人に非ずと続いていく。
これを四端の心と言って、人にはみなこの四つが備わっていると説くのである。
これが孟子性善説を形作る不忍の心と四端の心である。
この心を育んでいくというのが孟子の考えである。
更に孟子は言う。
その心を尽くすものは、その性を知るべし。その性を知らば、側ち天を知らん。
その心を存しその性を養うは天に事うる所以なり。
殀寿弐わず、身を脩めて以て之を俟つは、命を立つる所以なり。
すなわち、自分の持ってる本心を十分に発展させた人は人間の本性が本来善であることを悟るであろう。人間の本性が本来善であることを悟れば、それを与えてくれた天の心が解るのだというのである。
孟子あたりは未だ孔子同様天などと言うものの神格的なものに拘っているが、性悪説荀子辺りになると、天などと言うものはきっぱりと捨て去ってしまっているのが何とも快い。
そして孟子は自分の心である四端の心を大切に保存し、その本性を育てていくのが天に仕える道なのだという。
天に仕える、何とも理解不能な事であるが、短命もよし、長寿もよし、ひたすら天命に従って、自分の身を修めて天命の至るのを待つのが、天命を尊重する道であると孟子は言うのである。   ――孟子 盡心章句上――
孟子が様々な例を引いて善であることを説明しているが、生得善であることについての納得のいく説明は為されていない。
生まれて間もない人間の心が善か悪かを探究する方法はいかに科学が発達しても、まして孟子の時代に説明できるはずもない。
それは荀子性悪説にも当てはまることであるが、・・・・・・
孟子自体己の性善説には論理的に欠陥があることは十分に分かっていたのではなかろうか。
生得善であるとは言っても、学問をして善を学ばなければ、悪へ傾斜していくと考えること自体、人間の本性は悪と言えるのではなかろうか。
悪と言う言葉を使わないで、それは不善だなどとすり替えて無駄な抵抗をしている様だが、既にそれ自体が論理の破綻であると考えた方がいい。
果たして、人間と言う生き物それほど単純にできているだろうか。
孟子がたとえ話として挙げる例は、殆どが手前勝手なものばかりであり、俄かには賛成できない語り物ばかりと言っていい。
 
孟子性善説が出てくると荀子についても語らなければならない。
荀子孟子とほぼ同年代だが一世代は遅れて、現れた思想家である。
従って孟子は告子と丁々発止と遣り合ったが、時代が違う荀子には非難されるだけの立場であったようである。




参照文献     
諸子百家     湯浅邦弘     中公新書
韓非子      冨谷 至     中公新書
世界の名著
諸子百家  &  孔子 孟子     中央公論社     




イメージ 1






 
(本ブログの全ての写真は著作権を留保。無断使用・転用・転載・複製を禁ず。)