徒然の書

思い付くままを徒然に

書きかけの原稿 人生論について


人間は肉体と肉体に宿る動物的意識を理性に従属させること、言い換えれば自我を否定して、愛に生きることによって、同胞或は生存競争の悲劇から救われるばかりか、死の恐怖からも救われる。
何故なら、その時個人の生命は全体の生命のうちに溶け込んで、永遠の生命を受けるからだとトルストイは言う。
その人生観は何処までも現世的で、理性によってすべてを割り切ろうとしているから、神の観念の代わりに、人間の集団意識、人類の意識に究極の救いを求めようとしている。
このトルストイの論文は人生とは何か、如何に生くべきかの結論を出したものと言える。
 
人間、この矛盾に満ちた生き物
この人間と言う生き物の人生論などと言うトルストイの論文、やたらと難しい。
それでも、判り易く簡潔な言葉も述べている。
いずれにしても、訳の解らないことを延々と述べる哲学は苦手である。
引用してみると・・・・
人は誰しも自分の利益のため、幸福のためだけに生活している。自分のうちにこの幸福に対する欲求を感じないという人がいたら、その人は自分を生きている者とも感じていないのである。
人は自分の幸福を願わずに人生を考えることなど出来ない。
誰にとっても生きるということは、とりもなおさず、幸福を願いそれを手に入れるということなので、幸福を願い手に入れるということが、結局、生きるということなのである。
人は自分のうち、自分と言う個人のうちにだけ生命を感じる。
 
人生論、云々と言う本が本屋に氾濫するのは、その時期は凡そ世が安定に欠けて、人々が安穏に暮らしていけるような状態でないことが多い。
政治屋共の失政が続き、官僚共に振り回されている、政治の世界が見え隠れする、己のこれからの人生に不安を感じ、そんな社会での生き方を考えようと人々が多くなったときともいえる。、
それとも、己の人生をもう一度振り返って、前向きに進んでみようと思う人が多くなった、好ましい社会現象になったときか。
これまでも、様々な人生論の本が出ている様であが、何も人生論などと銘打った本を読むまでもなく、様々な小説や詩、古典や童話からさえも人生の指針は十分に汲みとることが出来る。
多くの人生論に書かれているのは恐らく、金もうけに走りすぎて、自己中心的で、排他的な生活を送って、富を蓄えることに四苦八苦している、などと賢しら顔で、読む人を見下したようなことを書いているものがほとんどであろう。
更にどれほど儲けても、永続するわけでもなく、たまったころには死が待ち構えているなどと言う輩さえいるだろう。
人間の価値観など生きていく上で、時代に即応するように変わっていくのが当たり前であるのだが、それを古い時代に世捨て人の様に時代と隔絶した様な生き方をした者の、価値観に学べなどと言う者が人生論のあちこちに見ることが出来る。
人は誰しも自分の幸福のためだけに生きている。
自分のうちにこの幸福に対する欲求を感じななどと言う人がいたら、その人は自分を生きているとは感じていないのである。
人は自分の幸福を願わずに、人生を考えることなど出来はしない。
本屋で立ち読みした人生論を良寛に学ぶという様な本だったと思う。
立ち読みした程度だから、正確な言葉ではないかもしれないが、次のような事が書かれている。
金銭感覚と競争原理だけが突出した現代では、市場競争とか功利の追求と言うお題目だけで事に当たれば必ず失敗すると言っていたような気がする。
ある一面だけを捉えた、人を脅すような書き方のものは多い。
良寛は子供のころから論語などに傾倒していたことも知っているし、禅坊主になって修行し、剣術でいえば免許皆伝にまで達した学識或る人物であることも理解している。
様々な詩集や随筆風の物もいくつかは読んだことがある。
だが良寛の行動を見ていると、額に汗して働くことを嫌い、その日その日を喜捨で賄って、子供と遊び、年寄りの面倒を見て過ごすのを善しとし、世俗の世界とは無縁のものと思っている様である。
良寛の言葉を引用してみよう。
私が、世の中の人の有様を見るに、皆愛欲のために、思い計っている。
それを求めて満たされないと、心も体も一層悲しみ悶える。
例え望んだことが思い通りになっても、結局は何年続くことか。
一度は極楽の様な楽しみを味わっても、後には地獄のような苦しみから逃れることは出来ない。
苦しみを味わうとそれから逃れようとするから、長い間苦しみ続けることになる。と
この良寛にしても、人生論を書こうかと言うものが、必ず口にすることは、金銭を追い求め、快楽を追い求めて、それを得ることが出来たとしても、それはほんの一時的なもので、後でそれに倍する苦しみを味わうことになるという、脅し文句である。
人生あざなえる縄の如くいい時もあれば悪い時もあるのは世の常識、目くじら立てて馬鹿の一つ覚えの如く強調することもなかろう。
如何に学識があり、悟りきったようなことを書いていても、働くことを拒否し、その日その日を人々の恵みによってのみ生きている人間が、賢しら顔に書くことをどうして人生の指針にしなければならない。
名誉だとか利益だとかは此の世の煩わしい事柄であり、その様なものに煩わされるのは御免だという世捨て人の、言葉をどうして人生の指針にしなければならない。
言葉などは、能書きだけならどんなことでも云える、それが人間と言う生き物の賢しらなところなのである。
ただの生きる事からの逃避、この世からの逃避と言うしかなかろう。
日本人一億数千、すべて良寛の様な生活をしたらどうなる。
私が立ち読みした本の著者は如何なるか考えたことあるのだろうか。
そんなことは絶対ありえないとたかをくくっていのだろうが・・・・・
 
人生論を書こうかと言う者が必ず書くだろうことは、決まっている。
現代の生活はお金がすべてで、お金さえ出せば何でも購える、そのお金を手に入れるために神経をすり減らし苦労の連続で、自分で自由にできる事は何にもない。
そんなお金に捉われるために生活の充足が損なわれ、収入だけを目的とした生活になっている。
精神のゆとりは殆どないに等しい。と
なんと偉そうな世の懸命に働く人を見下げ果てた奴と言っている。
心に余裕が見いだせないのは、何もお金を得る
ことに夢中になっているからだけではない。
意識する、しないに係わらず、生活にゆとりを取戻し、平和な心を取り戻すには、この社会あまりにも権力によってがんじがらめに縛られている。
自分の周りを見回してみるがいい。
外国ではほとんど放置されて人々の自由に任されていることが、我が国では行政の監視下に抑えられている。
身近な処で、免許の書き換え、車の定期検査、きっちり官僚共に抑え込まれている。
老子の言う、貧しいものから取り上げて、裕福な者へどんどんと身をを運んでいる、それを手助けするのは権力者だと。
この様な事が人々の幸福を阻害する原因の一部になっていることも確かな事だろう。
先進諸外国と比較してみるがいい。
人々の生活の隅々にまで権力が入り込んで、人々の自由を拘束している。
我が国の人々は古代から、様々な拘束を課せられ、それに耐え忍んできた。
それが戦後、民主主義という名の自由に出合い一気に解放されたかに見えるが、その自由にはきっちりと紐がついていた。
その紐を徐々に締め上げられていったのが現代なのである。
その中で、人々が望むものは己の幸福っだけなのではなかろうか。
何が幸福かは人それぞれで、他人がとやかく言うべきことではない。
 
トルストイもその人生論の中で、幸福を願い、手に入れる事が結局は生きるということなのである。
人間にとって本当に大切で必要なのは、ただ自分のものとしか感じられない、生命の喜び、つまり自分の幸福なのである。
とまでトルストイはその人生論の中で語っている。
トルストイの人生論なる論文は滅多矢鱈に難しい。
老境に差し掛かったトルストイの死への恐怖のようにも思える。
それで辿り着いたのが、愛と言うことなのであろう。
人間の生き方など、悩み続けて一生を終る人、ゆったりのんびり生きるを楽しむ人、人さまざまであろう。
他人がどの様に生きなさいなどと賢しらに、口出し忠言する様な安易な問題ではない。
朝起きると、様々な事が頭を駆け巡っている。
そうかといって科学的に脳科学によって、分析すれば人の理性に裏打ちされた心がいかに科学が発達したとは言っても、科学などでは解明できると言うものではなかろう。
人間と言う生き物の内奥など、科学などではとても太刀打ちできない深奥なものなのだ。
科学万能の世の中の様だが、人間に関する科学など科学が解明できるのはほんの一部でしかなかろう。
人間の幸不幸はその人の心の内にある。
良寛など学識をもち、随筆や詩を書きなぐった様だが、世に残った名言や、書かれたものを読んで、良寛の様に生きたいと思う人はいなかろう。
子供と遊び、老人を介護したとは言っても、人々の汗と涙の結晶を喜捨してもらって、漸く安住していた。
現代でいえばホームレス、そんな生活を楽しむとまで行かなくても、堪えられさえすれば、それはそれで何の屈託もない、気楽な人生であろう。
世からの疎外感に堪え、それを本人が納得できれば・・・・・
良寛の言葉のこんなのがある。
浮世を捨てて、わが身を捨てて迷いのない僧となり、月や花を友として残された命を保っている。               良寛全詩集
そんな浮世を捨てた良寛が・・・・
浮世の人々を非難している。
なんと世間の人の利己的で薄情な事よ。これを思えば嘆かわしくなる。
ただしく義に叶った道を踏み行わなければならない時に、かえって身を避けて隠れ、利益になると見ると、さきをあらそってはしりまわる。   草堂集
やはり良寛も浮世を捨てたとは言っても、生きてる現実は浮世の中、人々との交流もわずかながら残ってはいる。
人間一人では生きられない。
浮世を捨てたという良寛でも、浮世を捨てる事は出来なかった。
浮世を捨てるのは死のときのみ・・・・
学識があると自覚している良寛にそのことがわからない筈はなかろう。
地位や名誉やお金がそんなに煩わしければ、関わらなければいい。
世の人々が額に汗して生きているのを、人の喜捨によって命を繋いでいる者が世の人々を非難するには及ばない。
世を捨て働くことを放棄した、自堕落な男、己の内でだけ黙って世を眺めていればいい。
世を捨てた、世とは無縁の男が世を批判するのは以ての外。
この男何ともちぐはぐな生き方をしているものだとは思う。
学識があるからと、詩を作り物を書いて世を非難するのは僭越の極み。
そんな浅はかな思い付きを人生の指針になど出来るわけがない。
 
自分以外の他人の幸福について、トルストイ良寛が聞いたら卒倒しそうなことを、平然と述べている。
他人が不幸になることを望まなかったとしても、それは他人の苦しみを見る事が、自分の幸福を損なうからに過ぎない。
人間にとって本当に大切で必要なのは、ただ自分のものとしか感じられない生命の喜び、つまり自分の幸福なのである。
他人もやはり自分と同じように、自分自身の生命と、自分自身の幸福だけを感じ、自分自身の生命だけを重要な真実のものと考えて、人の生命などは自分の幸福のためのただの手段ぐらいにしか考えないものである。
ただ、人は自分の幸福と言うもの、それがなければ人生も意味を失ってしまう。自分一人の幸福と言うものが、そう容易く手に入るものではないばかりか、いずれは自分の手から、全く奪われてしまうに違いないと悟るのである。
人生を長く生きれば生きるほど、この考えは経験によって確かめられる。
 
 
参照文献
人生論                                トルストイ       米川和夫訳                         角川文庫
良寛の生き方                     松本市壽 著                                                 河出文庫