徒然の書

思い付くままを徒然に

人間は生きているのではなく、生かされているのか・・・



あるブログで、人は生きているのではなく、生かされている、と云う記事を読んで、この言葉について考えていたことを記してみたくなった。
決して生かされていると云うことに、異議を唱えるものではないのだが、
生かされているとは如何いうことなのか、何によって生かされているのか、改めてそのように考える必要があるのか・・・・・
そう考えることによって、自己の精神がどのように変わるのか・・・・・・
この言葉を聞くたびに、その様な思いがして、消化不良のまま過ごしてしまっている。

人間は生かされている…様々な処で、様々な人から聞かされる言葉ですが、その意味を明快に納得させられたことはない。
社会的生き物である以上、人間一人では生きられない、それは考えるまでもなく事実です。

この人間は生かされていると云う観念は東洋的思想と云うか仏教観からでたものでしょう。
そして、通常の生活の場からは出てこない言葉であることは事実でしょう。
何らかの切っ掛けでふと思い浮かぶ言葉、考えさせられる言葉ではあります。

西洋的な思想とは考え方がまるっきり違う。
西洋は人間中心の思想であり、人間は神の姿を写したもの、従ってあらゆる被造物を支配する者としてとらえていいる。
そんな思考方法と云うか思想と云うか、デカルト的思考方法として顕著に表れている様に思う。

人間は生かされていると云っても、その感じ方は人それぞれ全く違ったものでしょう。
大自然の摂理によって生かされていると考える人、目には見えない大きな力など・・・・・これを云う者も宇宙の力とか、これも結局は自然の力、太陽や自然環境の水や空気など、と云うもので言い包めるしかない。


この様に言う人物自体、人間は生かされているなどと悟り切ったことを言っては見たが、何によってどのように生かされているのか、当たり前なもの、宇宙の生命力などの説明不能なものを持ち出さねば収拾がつかないのである。
仏教者などに言わせると、広大無辺な仏の力により生かされている、と云うことになるのであろう。
人間は生かされている、と云う命題自体訳の分からない実体のないものを持ち出さない限り、ほとんど説明不能なのである。

確かに彼らの言うように、太陽や空気、水がなければ生きられないことは事実ではあるが、そうだからと云って、人間は生かされているなどと哲学的な言葉を用いる必要がどこにあるのかと云うことである。
一種の宗教観から誰がいうともなく云いだされたものであろうような気がする。

猫君の云うように・・・
‘人間は長い歴史の中でこんな当たり前のことしか思いつかない愚かな生き物だ’
と猫君は達観している。

これは、自分は生かされているんだと思う人・・・それを感じた人それぞれが、自らの内で味わうものであろうと思う。
確かに、社会的人間げある以上、人間は己一人では生きられないことは明白な事実である。
だが、一人では生きられない、と云うことと、人は生かされている、と云うこととは問題が違う、次元が違うことを銘記すべきである。