徒然の書

思い付くままを徒然に

地球も日本も人口過多~間引きの論理~

この地球上で、昔から人口が過多に成った時、神がいや自然が様々な形で人間と言う生き物を間引いてきた。
疫病、災害、戦争、等々
だがその間引きを、不遜にも人間が行おうとしている国がある。
お上に逆らうことを潔しとしない民の心を利用して。
さて、老人性の痴ほう症になった老人を、もう植物になったのだから人間の値打ちはないといった医者がいるというが、同じように考えるものも少なからずいるだろう。
と先にも述べたように、再生の見込みのない生ける屍同様の人間を際限も無く生かして置く技術だけは格段に発達したことは医師も自覚しているのだろう。
それが形だけは長寿をもたらし、長寿国ニッポンなどと得意がってる馬鹿がいる事もまた事実である。
生きるだけのために、点滴を続けれは一年でも二年でも生命を保っていられるのが今の医学である。
ところがこの点滴を外すと三日も持たないであの世へと旅立ってしまう。
これは実際に経験したことなのであるが、何故点滴を外したか、と問うたことがあるが明確な答えは帰ってこなかった。
これが高齢者の健康保険料や介護保険料高騰の負担の原因になっている。
 人の情として、身内の者にはどんな姿でもいい、ただ生きているだけでいいという心情も頷ける。
アポロンディオニソスの戦いである。
感性と理性、感情と理屈、直感と論理という世界。
それのどれがいいのかは分からないが、高齢者対策の全くない政治の貧困な日本と言う国を圧迫し続けている事だけは確かである。
日本の行政の欠陥はすべて先見する能力の欠如、先を見通せない輩が安直な政策を平然と行って、失敗はすべて国民の所為にし、その負担を押し付けてくる。
これはすべて明治時代から、いや太古の時代から行われてきた我が国の権力構造である。
我が国には古代から、お上思想と言うものがあって、お上に逆らうことはタブーとされてきた。
贅を尽くし遊びほうける為にだけ生きている朝廷や貴族と称する者たちは、民は単なる搾取の対象としか考えていなかった。
どの様な仕打ちに合おうとも民はお上に逆らう事は無かった。
それは武家の支配になっても変わる事は無かった。
そのいい例が家康が云ったという、民は生かさず殺さず搾り取れ、絞れなくなったら殺せ、という言葉によく表れている。
そこで植えつけられたお上に対する民のお上批判はタブー、黙って従がうという観念が未だに国民の遺伝子の中に書きこまれたまま残っている。
 日本の人口は高齢者が二十数%を占めている様だが、この高齢者は間もなく死に絶える。
ただあと何年かかるかは分からないが、それが待てないという政府の政策が高齢者の間引きを画策していることは明らかである。
年金の、健康保険の、介護保険の財源が枯渇したから、年金は減額する、介護や健康保険は保険料を大幅に吊り上げる。
姥捨て山の木草の実を刈り取る作業を政府自らが行い始めたといことに他ならない。
これを高齢者以外から徴収するとなると生活が不可能になるという。
当然猛烈は反撃が来る。
その舌の根も乾かぬうちに、憲法を改正してまで、正式な軍隊を持ちたいという。
これがどれ程国民を圧迫するかわっているのだろうか、馬鹿が。
 反対を考えてみると、現に介護義務がある子達から徴収すると生活が不可能であると、僅かな年金の高齢者から徴収すれば、年金で漸く生きている高齢者は、生きていくことは不可能であるという事。
それを承知で、年金の減額をしたり、社会保険料を増額する事、当然食えなくなって死を迎えることになる。
その政策が高齢者の死を早めることになる、即ち間引くことである。
特に、一人暮らしの高齢者は殆ど死命を制せられたに等しい。
姥捨て山へ捨てたはいいがその姥捨て山に存在する食糧を根こそぎ刈り取って廃棄する行為に等しい。
 単純な頭脳の持ち主であってみれば、それで高齢者が死に絶えてくれれば、日本の人口は正常に戻ると考える事しか出来なかったろう。
そしてそれが最良の策だと、われながら悦に入っている姿が見えるようだ。
子供の間引きは世界各国で行われてきたが、年寄りを山へ捨て間引きすることはわが国の特許である。
日本各地に姥捨ての伝承が残るとは言うが、実際に姥捨てなどと言うものが行われたという事には疑問がのこる。
先にも書いたように百姓どもの姑息な悪知恵であったような気がする。
 世界の先進国、いや後進国であっても、高齢者を間引くことは行われたと聞いた事は無い
その政治制度が、アメリカの様な三権が分立して相互けん制できる制度ではない故に、凡そ日本の政治屋と言うものは、権力を握りさえすれば、すべて己の自由になると思っている。
己らの世界に類を見ない高額な給与や議員一人当たり4千万と言う政党給付金を党に支給する勝手な法も、しかもそのおこぼれが議員個人に還流する事が自由に出来ては、国民はそれを防ぐ手段はない。
政治屋の世界に類を見ないほど高額な給与や正体不明の政党給付金などこれも世界に類を見ない制度であるが、それらを平然と懐に入れる政治屋であっても、高齢者の年金を減額する政治を黙認するのは国民の無気力以外の何物でもない。
単に黙認し続けると、お上思想に基ずくお上に逆らうのはタブーだなぢとばかりはいっていられない時代が来ることは必至である。
政治に金がかかるというのは、次の就職運動の為であろう。
団塊時代に生まれた高齢者を筆頭に、高齢者が死に絶えるまで、姥捨て山の年寄りを苛める政策は手を緩める事は無かろう。
ますます過酷になっていくだろう。
日本の少子化を心配する人々も多いが、元来が日本の人口が多すぎるので、高齢者が、死に絶えた後はバランスのいい人口形成になるのだろうと思う。
果たしてそれまで、日本と言う国が存在するかどうか・・・・・
今の高齢者と言われる者達が死に絶えるまでどれ程かかるか・・・・
20年か、30年か・・・・
それ故、待ちきれない政治屋や官僚が策するのは、高齢者の早急なる間引きなのである。
 
一九九六年4月、東京のど真ん中池袋のアパートで、77歳の母親と41歳の長男が餓死しているのが発見された。
長男は病気で寝たきりの生活で、母親が看病していたが、収入がなく細々と生きていたが、ついに食べるものが無くなった。
この繁栄を誇る大東京のど真ん中で、餓死者が出たのだ。
区は食べ物にも困っていた母子の生活苦を知っていながら対応しなかった。
区の福祉部長もそれを認めている。
母親が区にどの様な連絡をしたのか,区がそれに対してどの当な対応をしたのか。
豊島区は区情報公開条例に基づいて、母親の日記を全面公開した。
21世紀にならんとする豊穣を装う我が国の東京のど真ん中で一日一枚の煎餅を食して、生きながらえている親子に誰も手を差し伸べなかった。
そしてその一枚の煎餅も尽きた。
人間と言う生き物の薄情さはどんな論理を持っても説明はつかない。
知っていながらそれを平然と放置する行政の非情さは日本人と言う生き物に特有のものであろうか。
 
先に述べた政治屋が勝手に決めた政党給付金を国民に負担させるについての理由が振るっている。
広く国民が政党活動を資金的に支える仕組みを設け、政党活動費を確保して健全な政治を目ざすためにできた。
導入にあたって「コーヒー1杯で政治とカネの問題を解決する」とうたわれたように、国民1人当りの負担額は250円と決められている。
決められているとは言っても、取る方が勝手に自分らで決めたのだら世話はない。
 
この病気の息子と母親一枚のせんべいを買うお金もない。
その親子からも500円と言う金をむしり取ったことになる。
そしてまわりまわって大なり小なり議員の懐に入ることになる。
 
桎梏死者、非正命也
横死は天命に外れた死に方で、つまり非命であると。
自分がしても行けないし、他者をさせてもならぬ。
将たるもの能々このことを心うべし。
この心あらゆることに言えるのだ。
 
姥捨て山へ捨てて与えるものを減らし、そこにある生きる糧を根こそぎ刈り取ってしまえば、年寄り共は長くは生きられまいと考えた。
年寄りを間引く最短の方法は与えるものを減らし、搾取するものを多くすれば、自然生きてはいけなくなる。
年金の削減と社会保険の増額は高齢者が死に絶えるまで延々と続くことになる。
昔から子を間引く世は、圧政によって世の人々が生きていけない程の過酷な政を行われた時に起こっている。
だがこの間引きは貧困によるだけが原因ではないとは言え間引くという行為自体に人間と言う生き物の本性を見る。
日本の神話の頃、にも悪い奴はいたが、歴史の時代に入ってからも随分と悪い奴らはいた。
己の栄耀栄華を守るために・・・
今の時代年寄りを間引いて己らが生き残ろうとする悪人はどの程度の地獄へ落とされるのかなって、ダンテに聞いてみたいような気もする。
小さなころから慈しんでくれた親を、自分で介護することもせず、人任せにしてその費用は自分で払えという者達はどれ程の深さの圏谷へ落とされるのだろう。
これなどは権力を利用して、年寄りを間引こうとするよりは幾分罪は軽かろうがそれでも、自分の親を間引く手伝いをするのだから相当深いところへ落ちるのだろう。
それともミルトンが云うサタンのように、神の雷霆に撃たれて暗黒の世界に撃ち落されるか。
 
凡そ姥捨て伝説は、農民たちが食えなくなって、年寄りを置いておくと共倒れになってしまう。
役に立たなくなった人間はただの穀潰しと考えるのは今も昔も同じなのだろう。
昔は村と言う共同体の申し合わせのように、棄老が行われたのだが、現代の棄老は行政の政策の失敗を民草に押し付けた形の棄老であるといえる。
物の役に立たなくなった年寄りに、老齢年金を払う余裕などないと云うのが、行政の言い分なのであろう。
介護保険などにしても、物の考え方が全く転倒してしまっているにも拘らず、それさえ気付かない役人の言葉、年よりは年寄り同士助け合え、国の行政はあずかり知らぬというのがその言葉の端に現れている。
いずれ己等も雪の降る日に背負われて、棄てられる定めにあることを忘念しているのだろう。
人間平等論の結末は、誰もが必ず死と向き合うということである。
 
人は老いて不幸に為るために生きて来たのであろうか。
 
人生の終わりをしっかりと締めくくりたいために生きて来たのだ。
21世紀、東京のど真ん中、親子二人が餓死をした。
国も市も誰も手を差し伸べなかった。
平成も三十年近くなって、高齢者の理不尽な死が続くかもしれない。
高齢者に与えたわずかな年金を巻き上げて、捨てた老人を間引こうとしても、慈しんでくれた親たちの心に気付いた子達がいる限り、すべての老人を間引くことは出来ないことを・・・・
間引けるのは、生きる糧を奪われた一人暮らしの老人だけだということを・・・・
国家再生の方策も再生論も持たない無能な輩の集りでは、高齢者がすべて死に絶えるまで、高齢者社会は延々続くと言うことを・・・
 
老いて世に無用の存在となったものについては色んな言葉が世に氾濫している。
深沢七郎も書いている。
なんぼ寒いとって綿入れを
    山へ行くにゃ着せられぬ。

お姥捨てるか、裏山へ
  裏じゃカニでも這ってくる。
 それが人間と言う生き物の恐ろしさなのであろう。


 人皆知有用之用而莫知無用之用也
 
人みな有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり
 
年を取って、何の役にも立たなくなった高齢者といえども役に立つことはある。
無用の用を知るべし。
 
  紫式部(こむらさき)

イメージ 1