徒然の書

思い付くままを徒然に

人間という生き物の薄汚さ


 
長い間人間をやっていると、その生き物の薄汚さが、あまりにも多く目にし、体験することになる。
日本という国を治めている人間は、何事も世にあるものはすべて使い捨てとばかりに、人間という生き物も長い間生きているものは使い捨てにされている。
昔は人生五十年と言われていたが、還暦や古代希なりという年代まで生きた人も多かった。還暦は人間六十になったことを祝うものであるが、六十になることは干支が六十年で再び一歳に帰ってきたことを意味し、赤ん坊に生まれ変わったということである。それがめでたいというのである。
古来希なりと言うまで生きる人もいたが、六十まで生きることがめでたいとされる時代であったのである。
近頃は、人生百年などという言葉がばかりがはやりだして、長生きが賞賛されたり或は賞賛する人もいるには居るが、日本という国に生きているものについてだけはそれは通用しない。
それは年寄りを大切にし、安定した生活を保障する国での長寿の話であり、人間さえも使い捨てにする、日本という国においては姥捨てに合わない前に穏やかに、終焉を迎えるのが理想である。
まして杜甫が言うような、古来希なりまで生きながらえては、苦しみが増えるばかりである。
しかしよくよく考えてみるがいい、人は生まれたら必ず死を迎える、これは自然の摂理である。大統領でも首相でも、市の小役人や肥桶を担ぐ人足でも皆同じ平等である。
人は老いて不幸になるために生きているのだろうか、そんなことあるはずがなかろう。
人生の終着駅に来てその終わりをしっかりと締めくくりたいがために、生きてきたのだ。
だが、ただいまに日本ではそれすら思うままにならない。
年老いて、年寄りは年寄り同士助け合えと、放り出される。
これは、地方自治体の小役人の口から堂々と放言された言葉である。
小役人でさえそうなのだから、国が打ち出してくる様々な法制をを見ていると、老人阻害は明らかである。
団塊世代が一挙に後期高齢者の世界になだれ込むからと、老人に対する様々な負担が、一挙に三割、四割の負担増にになる。
若い世代は親の介護を放置して、介護を他人に任せるのもその一因であるが、介護保険料の老人負担がいかに増えようと、ほとんど頬かむりをしている。
己は年をとらないと思っているらしい。
今のまま、日本という国が続くとしたら、若者世代が老人になった時どんな仕打ちを受けるのだろう。
はっきり言えば日本には老人論という物が無い、ということである。
そんな国の老人は惨めである。
 
年老いたものはただただ、搾取され、苦しめられるだけであることをはっきりと自覚する必要がある。
ある宗教では、神が人間という生き物を作ったのだから、悪い人間はいないという。
たとえ間違って悪いことをしても、懺悔すれば、天国へいけるなどという宗教さえある。
当然の如く悪さをする人間を予測しているのであり、その懺悔を受ける神父は大忙しであると言う。
さらに一度や二度ではなく、数限りなく懺悔に現れる輩もいるという。
古代中国の考え方は天が人間をつくったのだから、悪い人間をつくるはずがないとは言うが、このよい人間の中に入れるのは君主であって普通の小人はそうはいかないらしい。
孟子は人は生まれながらにして、善人であるとはいうが、それは単に可能性を意味するだけで、後に様々な修養を積む必要があるという。
修養を積まない人間は悪へ走る可能性大きいというのであろう。
それは則ち根が悪であるからに他ならないのだが、荀子が言うように性は悪であるが修養を積む事によって悪が影を潜めて、よいことをするようになると考えた方が素直である。
世の中を見渡してみると、すべてその悪を為すのは銭を得るためであり、人を騙して銭をかすめ取り、己だけはいい暮らしをしたいという願望が、悪へ走らせるのである。
それは、一人一人の人間がそうであると言うのではなく、一つ一つの企業が銭をえるためにあらゆる手段をこうじて、悪に見えないような、すなわち法に抵触する事のないような巧妙な方法を、則ちこれは悪ではありませんよという方法を、或は人の錯覚、早計を利用し、錯覚を誘うような方法を講じるのである。
そこいらの街を歩いている人間でさえ、銭が絡むと簡単に悪さをする。
例えば公園で財布を拾って中の数万円を目にすると、迷うことなく紙幣を抜き取って、外形だけを、そこを管理するものに届けたりする。
受け取る方も何の疑問もなく、調査することもなく受け取って放置する。
そうゆう輩は決して交番などへは届けない悪知恵を持っている。
こんなことが日常茶飯事の如く起こっている。
様々な手段を使って、個人は個人で法人は法人で、悪人ではありませんよ、を強調しながら他人から銭を巻き上げる事に専念する、巧妙な方法を考え出していくことだろう。
ただ、老人の望むことは人生の黄昏も美しくありたい、ただそれだけである、だが今の日本じゃ無理なようである。

人生の終焉間近になってこの様な気持ちにさせられるとは、我の人間業は空しいものに成ってしまったように思う。

始めよければ終わり善しとはいかないようだ。





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