徒然の書

思い付くままを徒然に

温かい心には福が宿る。

菜根譚、読んだことなくても聞いたことがるだろう有名な中国明代末期の書である。
この中に、心暖かの者には福が来るといっている条がある。
天地の気は暖かくなればすなわち生じ、寒なればすなわち殺す。
故に性気の清冷なるものは受享もまた涼薄なり、という。
だから人間もまた性格が冷たい人は、天から受ける幸せも薄いという。
古代中国の思想は天人相関とでもいうのだろうか。
この世を生み出した天とわれら人間とが密接に結ばれているという考え方なのであろう。
この中国で言う天という概念は、西洋の哲学で言う神に近い概念であろうが、日本の八百万の神々とはちょっと違った概念ではある。
この天人相関という考えはとても面白い。
この天に我々は見守られており、良いことをすれば、天はそれに報いてくれる、悪事を働けば天変地異という形で人間を懲らしめる。
天ははじめ人間への警告としてほんのわずかな小さな災害をもたらし、人間がこれを受け止めて、反省し行為を改めればよいが、その警告を無視すると、天は次に大きな異変を下す。
古代中国の人々の考えたことは、大災害は単なる自然現象とは受取らずに、人間、特に為政者の失政の結果であると考えていたのである。
荀子などに言わせると天の領域と人間の領域とは直接的な関係はないとしながらも、人間が生きていくための活動を天が保障しているのだと捉えている。
それゆえ、人為を重視し、学問による人間修養に努力するように説いている。
だが人々が考えたことは努力すればいつかは天がそれに報いてくれる、悪事には天罰が下るとする素朴な信仰が人々の考えていたことの様である。
わが国においても子供のころから、同じようなことを繰り返し聞かされて育ってきたからか、この天人相関の考え方は意外と素直に納得し、受け入れることができるような気がする。
天の具体的な表れとして、春夏秋冬の季節の巡りが重要視されてきた。
時節を間違えた事象は天の怒りを招き、世の混乱に通じていた。
論語などにもこの四季の巡りについて、四季があってこそ、万物は生死を繰り返すといっている。
どの季節が尊いという事はないのであるが、人間の心は温かい春の様なあり方が理想とされるであろう。
冷たい心の持ち主は、死の季節を生きているといわれるように、天から与えられる幸せも儚く薄いものであると考えられる。
古代中国の天人相関思想は自ずとこの様な人間観に導かれていくことになるのだろう。
子供のころによく聞かされた、悪いことをすれば、天罰が下るというのも、この様な中国の古典に影響されているのあろう。
菜根譚前集七十二章を訳しておくと~~
天地の気は暖なればすなわち生じ、寒なれなすなわち殺す。故に気性の清冷なるものは受享もまた涼薄なり。ただ和気熱心な人のみ、その福も厚く、その沢もまた長し。
荀子のいうように人間の本性は悪。
教育によってその悪を抑え世に適合するようにして、世は成り立っている。
コロナに関する特別定額給付金の書類の中にそれ給付金を装った詐欺かもしれませんという注意を促す記述の書が同封されている。
人間の悪がこんなところにも顔を出している。
何も悪は日本左衛門や五右衛門ばかりではないのである。
現代の悪人は悪を働く相手は子供であろうが、年寄りであろうが、見境もなく悪事を働くそしてその手段は人をだましサギを働く薄汚い手法に多く見られる。
その結果相手がどうなろうと己さえよければいいという輩のなす薄汚い根性の持ち主である。
あらゆる手段を弄して人をだまし財を掠め獲る。
荀子が言うように性根は悪であっても教育によって善を行うようになるとは言うが、こんな輩は教育の甲斐もなく悪事を働いているという事になる。
たとえこの輩を刑務所へ入れて、再教育などといっても、出れば同じことの繰り返しであろう。
人間改造など夢である。
すなわちこの世に必要のない生き物。
こんな輩のために貴重な税を使う無駄は行ってはならない。
こんな輩一人刑務所で養うためには数百万の税が使われることになる。
全く、税の無駄使いといっていい。
この世に必要のない生き物のために。
この菜根譚は人生の指針とよく言われるが、指針というより、人間としての在り様を書いたものの様な気がする。

 

 

 

 

 

 

 

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