徒然の書

思い付くままを徒然に

ものを大切にすると・・・・・


育った時代は今のように、ものが豊富でもの余り、飽食の時代とは違って、物もなく食い物もない時代であった。
古代から我が国の百姓は絞り続けられてきたが、昭和の戦争の時期から、百姓の態度が一変した。
それはそうだろう、どこにも食い物はなく、一般の庶民が食い物を手に入れたいと思えば、百姓家へ頼みに行くしかなかった。
報復はこのときとばかりに、ふんぞり返った百姓の姿は、子供心にも鬼に見えた。
そんな時代であったから、ものを大切に使うように育てられた。
そんな思いが未だに心に残っているのだろう、知らず知らずのうちにものを大切に扱うようになっている。
だが飽食の時代になると、大切に、大切にものを使うと、お上からとんでもない負担すなわち税をかけられる、負担を強いられる羽目に陥る。
お上という処は古代であろうが、武家の封建時代であろうが、もちろん現代でも、権力にものを言わせて庶民を虐げることに腐心しているらしい。
権力を握ると途端に、薄汚い人間の姿を現してくる。
それは地方自治の末端の小役人であっても変わることがない。
庶民を締める理由などはなんとでもつけられる、理不尽であろうとそんなことはおかまいなし。
昔は、五十、六十ははなたれ小僧と言っていたこともあるのだが、今の時代はそうはいかないらしい。
精々、引かれ者の小唄ぐらいの、嘲笑を浴びるのが関の山である。
一般庶民は六十を過ぎると強制的に世から追放されるが、政治屋や財界などの特殊な世界では、七十、八十の老体が現役で優雅な生活を享受している。
政界や財界にはもっともっと、次の世界に近づいたご老体もいるだろうが、これには認知症の検査などは義務づけていない様である。
老体の事故が多いなどと、免許更新に高齢者講習などと認知症の検査を義務付けていながら、もっともっと大切な国事に関することに関わる老体は認知症であっても、よいと考えているのだろう。
議事堂の椅子に座るものには、洟垂れ小僧の頃から認知症の検査を義務づける必要があると。
今の日本という国は飽食、使い捨ての時代と有用なものも、何の躊躇もなく捨ててしまっているが、ついでに人間まで使い捨てにするらしい。
手を差し伸べなければ、死を待つ以外にないことを知りながら、放置する地方自治の役人もいると聞くに及んで、日本沈没もそう長い先とは思えなくなってきた。
若い人々の間でも、老人が腰をかがめ、身を屈して生きているのを見るにつけ、良識あるものは、安心して年をとることが出来なくなったと嘆いているという。
そんなことを書いた記事をどこかで読んだような気がする。
若い連中も年をとると、どんな扱いを受けるのかおぼろげながら分かってきたのだろう
、現在の年寄りが、社会でどのような扱いを受けているのかおぼろげながら感じているものも居ると言うことである。
地方自治の小役人などは年寄りは年寄り同士で助け合えと、年寄りから驚くほど多額な介護保険料を取り立てるなどは、本末転倒。
この様な輩は自分の親さえ満足に面倒を見ることをしないのだろう。
介護義務のあるのは年寄りを抱えたその子供たちすなわち現役で居るものたちの義務であることを忘れ去っている。
これが今の日本人である。
己が年をとらないと思っているのかも知れない。
庶民を騙し騙して、作り上げた年金制度も与えざるをを得なくなると、今度はそれをいかなる口実で巻き上げるかの算段をするに及んでは、若い連中も我に関係なしと言っていられなくなるだろ。
その日は間近に迫っている。
 
ず~っと、遙か昔、香港で見た光景が思い出される。
公園のようなところで、老若男女、年寄りだけのこともあった。
たくさん集まって、太極拳を楽しんでいる姿は実にのんびりとした、優雅ささえも感じられる、そんな姿をよく見かけた。
調べてみると、中国社会は老齢者をとても大切にするという。
老齢年金なども日本とは比べものにならないほど多額である。
今の日本の政治屋は己たちだけを大切に、どこの国の政治屋より多額の給与をせしめている、驚くほどの財政赤字にも拘わらず。
社会契約をむすんでも、こんな輩が現われるとはルソーも予想だにしなかったろう。
使い捨てた年寄りにできれば年金など払う必要は無いというのが今の政治屋の考え方、それよりもいかに多く己らの懐を潤すかが最重要課題であるらしい。
日本という国の政治屋は世界の政治屋の中でも最高の給与を自分勝手に決めている、驚くべき政治屋集団である。
歴代の政治屋たちが積み重ねてきた、累積赤字は世界でも類を見ないであろう。
にも係わらず世界でも類を見ないほどの高額の給与を取るほどの有能さを世界の政治舞台で示したろうか、私には無能さをさらけ出したに過ぎないように思えるのだが。
どれほど日本という国に役立った政治を行っているかどうかは疑問ではある。
 



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白いバラは第二次世界大戦中のドイツにおいて行われた非暴力主義の反ナチ運動を表象するものであったらしいが、そのメンバーの首謀ほか五名がゲシュタポに捉えられて、ギロチンで処刑されたという。我が国あたりでも白バラ抵抗運動として知られているようだが、白バラに関してこんな事実があったとは初めて耳にした。ということもあるが、二次大戦中の1943年当時まだギロチンによる処刑が行われていたことに驚いている。



 ドイツのナチズムと言えば二次大戦中に発刊されたという、自由からの逃走と称する、フロイトに対する批判や、全体主義、ナチズムに対する憎悪を心の内に秘めた、なんとも奇妙な書が未だに版を重ねているという。


それによると人間は中世社会の共同体的拘束から解放されて自由を獲得したが、孤独と無力感にさいなまれ、その結果、これらに耐えきれずに自由からの逃走を試み、全体主義へと則ちナチズムへと走り込んだというのである。


その自由にしても、いわゆる意思の自由なのか、市民的な自由、社会的な自由を意味しているのか・・・・・・


孤独感、疎外感さらには無力感を味わうのだとすればそれは意思の自由でなければならないはずである。
自由を得た人々の意思がすべて、当然の如く疎外感や無力感に襲われ、すべてが全体主義へと指向するとする、と考えることには疑問を感ずる、というよりも妄想であるとしか思えないのだが・・・・


全体を通して読んでみないことには、批判するにはあたらないのだが、どうにも読んでみようという気が起こらないのはそんなところにあるのかも知れない。
いまだに版を重ねていると言うことは、興味ある学説なのだろうとは思うが、どうにも賛意を表することにためらいを感じる。

自由を得た人々の自由意志がすべて無力感や疎外感に襲われ、それがすべて全体主義へ向かうと言う様な思考過程にはとても賛意を表することはできない。

人間と言う生き物が自由を得ると、それほどの無力感や疎外感を感得するものであろうか。
その思考過程にはユダヤのナチズムに対する憎悪が流れているような気がしてならない。
そのナチズムへの指向を人間の自由になった意思に求めたに過ぎないような気がする。
どのような人間にも、全体主義や、ナチズムに対する拒否反応は存在するが、実際に体験したものと、そうでないものの感情は全く違うと言うことである。
人間の意思、心の自由はそうは簡単に解明し、それをもとに論理を展開する事などはできなかろう、いかに心理学を解明したとは言っても・・・・・
それを無理に犯せば間違った結論へと導くことになる。

この様に考えるなら、近代人の持つ自由あるいは考える自由とは何かを明確にしてからの議論が必要であろ、自由を得たものがすべて孤独と無力感にさいなまれそれがナチズムへと走るなどと考える事など人間心理を甘く見ている。
人間心理それほど単純明快なものではない。
会心理としてもナチズムへの憎悪からの発想と取られても仕方なかろう。



 
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