徒然の書

思い付くままを徒然に

老荘と淮南子から学ぶ


私という生き物が生まれるまでに、この天地は途方もない無限の時間を経過している。
私が死んでしまった後でもこの時間の経過は無限に続いていく。
この様に考えると、人間という生き物は無限に続く時間の経過のただの一点に過ぎない。
この人間のわずか数十年の命しかないという生き物が広い天下の乱れを憂うるなどは、実に馬鹿げたことでしかない。
そうならば、天下の乱れなどは憂えず、ひたすら我が身のことだけを考えて生きてこそ、永遠の道を、考える資格がある。
この様に、淮南子に書かれた一文があったと書かれているのを見たことがある。
淮南子に言及するくらいだから、老子荘子に関する書物を読んだときなのだろうと思う。
だが、淮南子を読んだときに、この様な文章があったとは、どうしても思い出せないのである。
気になるので、淮南子を何冊か引っ張り出して、読み返してみたが見当たらない。
今度はこの文章を載せたものがどれだか気になって、老子荘子を読んでいるのだが、ひょっとして、ふと思い出したのは、先日古本屋で、手に入れた、人類の知的遺産というシリーズものの老子荘子だったかもと思って、読み返している最中である。
あった、まさにこの老子荘子というタイトルの書籍であった。
 
けれども、淮南子の詮言訓に所収されているらしいが、所蔵の淮南子の詮言訓では省かれてしまっている。
人間という生き物の一生、せいぜい長くて百年、悠久の時の流れのなかではただの一点にさえならないような時間である。
そんな中のたった百年の間、天下の乱れを憂えて見てもなんの役にも立たなかろう。
 
そしてこの淮南子を援用した、老子荘子の著者は、この利己的とも言える個人主義に強い反感を持つことは、そのものが政治的人間であることを己自ら認めたことになるというのである。
しかし、太古以来、政に携わったものたちが、民衆などほとんど眼中になく、ただの搾取の対象としか見なかった、己の利益のみを追求してきたことは歴史が証明してくれる。
それならひたすら自己の満足を目指して、己自身の安心立命だけを目指したとて、誰に非難されることもなかろう。
このこと、一個の人間の救いだけを利己主義というなら、世の中にずいぶん多くの利己主義な事柄が罷り通っているといえる。
 
その利己主義の最たるものが、宗教であることは、誰もが思い当たるであろう。
次に考えられるのは、資本主義経済における資本家はただひたすら己の資本の充実目指して信義などは二の次に思っている様に思える。
 
我が国の、明治以来、働く者に過酷な条件を強いてきたことは明白であり、低賃金で使えるだけ使って、賃金が高騰すると、さっさと低賃金を求めて、海外へ流出してしまった。
これは、民衆に対する裏切りと同時に、国家に対する裏切りでもあることは明白であろう。
 
その結果、下請け業者の苦悩など全く関知しないとばかりに、切り捨てる非情さ。
まさに利己主義の最たるものと言えるだろう。
己たちが、戦後の混乱から、立ち上がって、人並みの企業にに成長したのは、民衆の血と汗を搾り取って、膨らんだことを忘れ去ってしまっている。
それがその働くものもたちを切り捨てて海外の低賃金だけを目指して
 
それが資本主義なのだと言えばそれまでだが、それでも己を成長させてくれた民衆に後足で砂をかけるがごとき海外への転出は、将に国を裏切り民衆を裏切り、下請け業者を切り捨てた破廉恥さ以外の何物でも無かろう。
エコノミックアニマルなどと、皮肉られているが、とんでもない動物にさえなれないが鬼畜性である。
自然の摂理から言えばその報いは、今後歴然として出現するであろう。
低賃金で作ったものを持ってくるから買ってさえくれればいいという、超利己主義を発揮した日本人という生き物の非情さ、えげつなさ、を余すところなく見せてくれた。
それで東南アジアの経済発展は目を見張るばかりであるなどとは抜け抜けとよくも言える言えるものだとあきれるばかりである。
 
淮南子が言うように、無限に続いた時間と、これからも無限に続くであろう時間の狭間にある、人間という生き物の生きた時間など、有って無きが如くのものであるとすれば、その狭間でどの様に足掻いてみてもたかがしれている。
己の関知しないところでこの世に放り出され、何時とも知れずに死を迎える人間という生き物であるならば、せめてその生の間をただひたすら、我が身が治まるように、そのことのみを楽しみに生きる者であってこそ、この世に生まれた甲斐があるというものであろう。
それが人間という生き物の本性なのである。


参考文献
老子荘子  人類の知的遺産叢書   森三樹三郎著   講談社





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