徒然の書

思い付くままを徒然に

森の中のせせらぎ ~水の流れの様に~


深山幽谷とまではいかなくても、深い森を思わせる緑のなかに清らかなせせらぎがあった。
どのようなせせらぎであっても、水の流れの音を聞き、流れる様を見ていると、なぜか心が和んでくる。
この清らかな、水の流れを見ていると、遙か遠い子供の頃を思い出すのが、東京という化け物の住むところへ出てきて以来の常である。
 
老子の言葉に、上善は水の如し、というのがある。
この言葉がとても好きなんである。
この老子の言葉は、上善如水、などという酒の銘柄が出来て、以来ずいぶんと知られるようになったものだが、その内容を知る人は、あるいは、とても少ないのではなかろうか。
老子荘子の言葉は、人間の人生行路の人間学としても、是非とも収めておきたい言葉が多い。
この水に関する老子の言葉を引用すると・・・・・
上善は水の如し。水は能く万物を利して而も争わず。衆人の悪むところに処る。故に道に幾し。居には地を善しとし、心には淵なるを善しとし、与りには仁を善しとし、言には信を善しとし、正には治を善しとし、事には能を善しとし、動には時を善しとす。
と読み下すのであるが、その後、夫れ唯だ争わず、故に尤めなしと続く。
 
要は人と争うなと言うのであるが、長い歴史を振り返ってみると、人間の歴史は争いの歴史と言っていい。それは現代においても、我らの生き様そのものを示している。
水の性質に範を取った言葉は老子の中には他にもあるが、水は人が嫌がる低い方へと流れていき、従順柔弱で争わないところに、人間人生の範となるのであると老子は言う。
この様な環境のせせらぎのそばで、ゆったりとした時を過ごしていると、人間社会の喧噪が嘘のように消え去っていく。
人間時には、この様な己の心を休めてくれるところで、ゆったりと過ごす時間が欲しいものである。
夫れ故にこそ老子の言う、不争の徳は重要な意義を発揮するのだろう。
 
何もこの様に考えるのは老子一人ではない。荘子なども同じようなものであるが 、荘子老子の処世哲学を、濡弱謙下、などと評している。水を理想とするのは老子だけのことではないのだが、その老子の中にその特色が見えるのであろう。
 
数十年も前、アメリカの宇宙船が月に到達したと言われたことがあった。それが本当のことだとすると、月から眺めた地球の姿は中空に浮かんだ、小さな天体に過ぎなかったであろう。ニューヨークだ、ワシントンDCだと圧倒的な存在感を示したものも芥子粒ほどの存在感もない。
そんな中で人間という生き物が、目の色変えて争っていた、馬鹿馬鹿しさと空しさに打ち拉がれたことであろう。人生観が変わった。
その彼らが感じたことは老荘が言う道なるものと一体化したかも知れないし、禅で言う悟りの境地に達したのかも知れない。
人間の賢しらにたって、浅はかな知を働かせ、是だ非だ、善だ悪だと争っていたのがなんとも馬鹿らしく思えてくる。
天空から眺めた地球の姿を見て、あらゆるものに惑わされることもなく、すべてのものをあるがままに受け入れることが出来るような、自在の境地に立ったかも知れない。
すべてのものをあるがままに受け入れて、この世に生を受けたからと言って、悦ぶこともないし、この世から去るからと言って悲しむこともない。生きていることも、自然のままを受け入れ、死についいても何も煩うこともない。
人間の死に、二度遭遇したことがあるが、いずれも赤子が眠るが如く、眠りに入っていった。唯穏やかな眠りに入っていった、それが人間という生き物の死というものであろうと、つくづくと思ったものである。
その眠りに入るとき、何も思い煩いあるいは何も考えない、頭の中を去来するものは何もなかったろう、無心のままに眠りに入っていった。
ただ普通の眠りと違うのは、眠りに入ると、永久に目覚めることがないという点だけであろう。
人間自由自在な境地に達するすというのはこのことであろうかと思ったものだ。
人間修行によって、自他の区別にとらわれない、無心となって、現実の中で生きながらえるなどと言うのは、とても無理だと思うようになった。
折角この世に生を受けたのなら、この世にある限り、最高の生き方をしたい。それには水に学ぶ事である。水はどのような器にも合わせて、あらゆるものに利益を与え、常に人の嫌がる低い位置を求める。それでいて時には激流となり岩も砕きながら流れ下る。しかし普段はいつも柔軟であり、どんな場合も自由自在だから人と争うなどということはないのである。
 
 




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