徒然の書

思い付くままを徒然に

有意義とは何ぞや


人間と言う厄介な生き物。
知と言うものを持っているが故にその厄介さは止まるところを知らない。
人間の心は天の心を知るよりも難しい。
もし人間が、己の生を楽しむことを最上の願いとするならば、今の世の安らかに生を楽しむことが適わぬ社会の現実は人間の知が、鳥獣虫けらにもかなわぬと云う事か。
一体何が人間の社会に混乱と無秩序をもたらし、人間の生に不安と恐怖をもたらしているのか。
何処かが狂っている。
何が人間を狂わせているのか、人間の心の不可解さを眺める時、絶望的な驚嘆を感じる。
 
凡そ人の心は山川よりも険しく、天を知るよりも難し。
天にはなお春秋冬夏、旦暮の期あるも、人は厚貌深情なり。
故に貌は愿にして溢なる有、長にして不肖のごときあり、順にして懁あるなり、堅にして縵なるあり、緩にして釬なるあり、故にその義に就くこと渇くが如き者は、その義を去つること熱かるるがごとし。
――列禦寇篇-
凡そ人間の心は山川よりも険しく、天を知るよりも難しい。
天にはなお春秋冬夏の四季の推移、昼夜旦暮の周期があるが、人間は容貌を厚く飾って、外に現さず、心情を深く隠して窺い知る術がない。
という意味だそうである。
 
生れ落ちて、死ぬまでの一生、同じ一生なら有意義に過ごしたいと思うのはだれしも思う事。
有意義、無意義とは言っても何が有意義であるのか・・・・・
そもそも有意義とは何ぞやと言うことになるのだけれど、価値のあるというように多くの人は考えている。
この価値と言うのがまた難しい。
一般的に言えば、主体の欲求をみたす、客体の性能と言うことになるのだが、価値は絶対的なものと思っているものも多いが、この主体によって、如何様にも変化する、相対的なもの・・・・・それが価値と言うものである。
荘子に言わせると価値などと言うものは絶対的な価値などと言うものはなく、すべて相対的なものだとする。・・・・
人にとって価値あるものでも他にとっては全く意味のない物、価値などと言うものとは全く縁のない物だというのが、荘子老子の出来事に対する考え方である。
価値を求めて蠢いてみたところで、有意義な生き方とは言えない。
人間などと言うもの、己の常識などと言うものの世界がすべてだと思い込み、その中に安住してしまう。
些細な己の知で、一面の真理をすべてだと判断し固執する。
己の小さな世界に跼天蹐地して、大きな世界が目に入らない、それが大方の人間と言う生き物なのである。
 
荘子の哲学が、現代のヨーロッパのする哲学、実存主義の考え方に類似する精神傾向を示している。
荘子の生きた古代の身分社会の専制権力の機構に脅かされていた。
ヨロッパの人間が神は死んだ、と云って騒ぐ神と言うものをはじめから持つことも無く、恩寵や救済など初めから知らなかった。
ただ人間の主体性を強調し、世俗の有用性を否定し、事物としてのあるいは道具としての、人間の在り方を拒否して、物を物とし、物とせられない生き方主張した。
この実存は自己の生き方を問う事であり、その自己が誰でもよいと言う訳ではなく、変える事のない己自身でなければならない。
個別性と主体性こそが己と他を分かつものである。
人間があくまで人間自身であろうとし、自己が自己以外のものであるまいとする決意が、実存主義を特徴付ける根本的立場なのである。
この自己が、この自己として存在していることの根拠は、この自己が今現在生きてあるという事実そのものの中に在るのであり、この自己を外から、もしくは上から主宰しようとする如何なる超越的他者も存在しないのである。
外的な権威や権力に対する屈従、日常的な儀礼に振り回され、高度に発達した機械力によって人間を部品化する非人間化に対する忌避。
人を物とし、道具とするというは、個人がただ付き合いの上で個人を利用するという事には当てはまらない。
だだ個人として、他の者に利用されることは自己が道具として扱われたという意識は湧いては来ない。
個人として、友のために尽くすことは非人間的な概念とは全く違った次元のものと言える。
一個の人間としての個々の交わりの中では、道具としてあるいは物として扱うという観念は出てこない。
荘子には、「君子の交わりは、淡きこと水の若く、小人の交わりは甘きこと醴の若し。君子は淡くして以て親しみ、小人は甘くして以て絶つ。彼の故無くして以て合する者は、則ち故無くして以て離る。」
個々の人間としての交わりについては荘子の言うが如き交わり方も心すべきである。
これは荘子の山木篇に、君子の交わりは淡さこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し、とあって我々個々の付き合いや、日常での交友関係に参考となる格言といえる。
 物事をよくわきまえた人の交際は水のようだ、と述べた後に続いて、つまらぬ小人物の交際は、まるで甘酒のように甘く、ベタべタした関係であり、一時的には濃密のように見えても、長続きせず、破綻を招きやすいのだ、といっている。
これも人間と言う生き物の不可解な心の一面である。
醴、は甘い酒のことをいい、交際のやり方を比喩で示している。
一般の解釈のなかには、君子を教養人とし小人は教養程度の低い人を指しているのだという説もあるが、必ずしも学問をしている者や読書人が水のように淡い交際をしているとは限らない。
学歴が高く、地位が高くても、濃厚な交際を好み、つながりを強め様と、甘い交際をする人間も多く見られるが、人間と言う生き物の心の内は判らない。
人間と人間との交わりに於いては、学歴や地位の高低は全く関係ない。
人間と人間の交わりは心と心の交わりであるが、人間の心の不可解さはさらに述べる必要もあるまい。
 
人間に知、こころ等と言うものが備わったばかりに、世に様々な軋轢が生じ、人々を苦しめている。
人間の知識の範囲は狭い。
だがその狭い知識も、その周囲に広がっている未知の範囲の助けによって、広大無辺な自然の働きを知ることが出来る。
有の以て利を為すは、無の以て用を成せばなり。 
――無用の用――   老子十一章
精々無用の大木の様に、無用であることによって、精々避けられない死を先延ばしする様心掛ける方がよほど有意義な生き方と言えるのではなかろうか。
 
 
参照文献
荘子                                              福永光司                                    中公新書
荘子                                              世界の名著                                    中央公論社
 
 
 
 
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