徒然の書

思い付くままを徒然に

諸子百家 その五

荘子の思想 その壱
論語荀子はそれぞれ学而篇、勧学篇で学問の重要性を説いている。
しかし道家はこれとは全く逆の教えを説いている。
この道家老荘に代表される道教思想は文明化に対する鋭い見方がある。
社会に恩恵をもたらしたとされる文明こそが、人間を不幸に陥れているのではないかと言う文明化批判である。
この哲学は大変難しい。
1617世紀の西欧のホッブズやロックも人間の自然状態のあり方から政治論を説き起こしている。
それよりも遥か彼方、一千数百年も前の紀元前中国の戦国時代に現れた荘子と言われる人物、彼の育った環境が影響しているのか、実に特異な思考過程をたどる。
当時の世の古典がこの現実の世をどう生きるかということを主張するに、荘子は現実そのものから超越することを説いている。
解脱の思想と言ってもいい。
彼の主張を敷衍していくと悟りの境地へと導かれることになる。
 
彼や老子の言う大本は道と言う摩訶不思議な概念であって、道を究めるための思想であると言っていい。
宇宙とは何かという示唆とも密接な関係にあって、人間が現れるはるか以前、宇宙は混沌としたものに包まれていた。
だがそこに人間が勝手な作為を施して、世界の平安を乱してしまった。
それ故にことさらな言語と作為を抑制して本来の姿に戻そうとする。
儒家は人間の頑張りを強調し、道家は頑張る事こそが人間を不幸にするというのが根本の思想である。
この道家老荘に代表されるというが、その老子荘子の目指すところは全く違っている。
 
老子の思想は著書老子の全編にわたって、展開されているが、・・・・
持してこれを盈は、其の已めんには如かず。
揣して之を鋭くするは、長く保つべからず。
金玉堂に満つれば、これを能く守る莫し。
富貴にして驕れば、自ら其の咎を遺す。
功遂げて身を退くは、天の道なり。
 
天の道にかなう身の処し方とはどの様なものであろうか。
それは自然に沿って無理をせず、一歩身を引くという処し方である。
人々は学問によって向上をめざし、立身出世を人生の重要な目標とする。
だが老子は逆に身を引くことが天の道、斯世界の正しいあり方であるという。それはそうした世俗の人々の頑張りは決して長続きせず、かえって人々を不幸にすると考えたからである。
 
同じ道教の祖であっても、老子荘子の考え方には随分と開きがある。
荘子と言う書物には内篇、外編、雑篇があるが、荘子自身が書いたものは内篇だけだと言われている。
荘子も万物の根源には道の存在を認めている。
この道から見れば一切の物には差別はない。
老子荘子道教の原典とされてきたが、老子は現実を生きる処世の術を説いたのに対して、荘子は現実からの超越を説いている。
解脱の思想と言ってもいいのかも知れない。
世俗の価値観を超脱したものの考え方、生き方が荘子と言う書物なのだろう。
荘子と言う書物は面白さにかけては古典随一であろう。
他の書物が理論一辺倒であるに比べ荘子は文学的な表現がおおくを占めている。
比喩や寓話が数多く使われており、文学書の観を呈する。
その比喩や寓話が奇想天外、空想の世界、夢の世界の中を漂うような話が続く。
荘子の内篇の最初逍遥篇の初っ端から、北冥に魚アリ・・・などと寓話から始まる。
荘子の面白さは他の古典に類を見ないが、その比喩や寓話が何を以て書かれたのか、我々読むものに何を言いたいのか十分にその真意を探る必要がある。
ただの寓話として、その面白さだけで終わってしまっては、荘子を読む必要はない。
 
逍遥遊とはあてどもなく彷徨い遊ぶ事、詩経清人の詩に、河の上に逍遥す、とあるという。
九万里の天空を駆ける大鵬の様に何物にもとらわれることなく自由の境地に遊ぶ、荘子の境地を求めたものと言われている。(世界の名著)
 
この逍遥の初っ端の寓話に九万里の天空を掛け南を目指す大鵬の話が出てくる。
話だけを面白く読んで、終わりとするなら、荘子など読まない方がいい。
この中に荘子の言いたいことが一杯詰まっている。
荘子の比喩や、寓話は総べて荘子が言いたいことをそれらの形式で面白く読ませる書なのだある。
他の古典の様に理論付けのものよりはるかに面白いし。寓話から読む人それぞれがそれぞれの考え方があって良いと思う。
どの様な思いを持つかは各人の自由だが、読んでいくうちに、現実の世そのものから超越した、世間の常識とは全くかけ離れた、世俗の価値観を超えた世界に居る、そんな風に語っているのだなって思う様な気がしてくる。
人間だれでも自由でありたいと思う。
人間だれでも死に直面すると、恐怖を飛び越えて命さえ無事ならと望む。
飢餓に苛まれて、苦しめられると、何か食い物さえあればと思う。
人間が自由でありたいと思うのは現実が自由でないからであり、命の安全が確保され、食い物が手に入ると、今度はそれ以上のものがほしくなる。
現実の人間などと言う生き物は、そのような激しい手前勝手な情念の嵐が吹きすさぶ中で生きており、海の真っただ中で今にも沈没しそうな小舟の中でもがく不自由な存在なのである。
 
荘子が生きた処と時代は、古くから四戦の地と呼ばれた、弱小国の過酷な悲哀と苦悩を骨の髄まで味わった歴史的な現実は人間の極限状態楚示すものであった。
ヘーゲルが喝破した様に古代中国で自由であったのは皇帝だけであったろう。
戦のたびに人々は身も財も搾取され、生きているのがやっとの極限状態の時代が続いた。
荘子はその様な貧窮と極限状態、そのような悲惨な不自由な現実の中で人間の自由について考えた。
古代中国の自由なき専制支配の中で生きた荘子、不自由な生活の自由を必死で模索した、そこに荘子の思想の独自性がある。
人間は、己の全く関わりのない、己の選択の余地など全くないところで、この世に放り出され、背に重荷を背負って死へ向かって歩かされる。人間と言う生き物がこの世に放り出されるとき、己には何の選択も許されることは無く死へ向かって歩くだけの存在としてであった。
 
人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず不自由を 常と思えば 不足なし、心に望みおこらば 困窮し足る時を思い出すべし等と云った人間がいるが、これは素奴の近くにいた坊主あたりが云った言葉で己が云った事の様にしたのであろう。
人間悟ることはなかなか難しい。
 
ここにはインドの輪廻転生、カルマの世界につい一言すべきかもしれないが、カルマにはそれなりの難しい問題がありこれとはまた別個の問題とした方がいい。
アダムとイヴが犯したという罪、キリスト教のいわゆる原罪についても同じ様なもので、これもまた別稿で考えた方がよさそうである。
だが荘子には人間がこの世で自ら犯して罪業によって永劫の輪廻、あるいは原罪を背負って生まれてくるなどと言う思想は全くない。
人間、そんな輪廻による罪や原罪などを考えていては一日たりとも、現実の世で生きていくことは出来ない。
とは言え荘子が死後の世界について考えていないかと言えば、死後の世界については彼の考えの中に見ることは出来る。
人間が己の感知しないところで、この世に投げ出された一個の生命体であり、その人間を創造したものは、人間の知では図り知る事の出来ない力、自然の道とも言うべきものと考えていたのかも知れない、いやそう考えていたのだろう。
この世に放り出された生命体は過去の罪業や、神への負い目を負わされて此の世にあるのではなく、ただそれ自体として生まれ死んでゆく。
人間の存在自体には善も悪もなく、善悪の価値評価を超えている。
人間はただ理由もなく、理由づけるための必然もなく、己の全く関知しないところで、この世に投げ出された自己に対してだけ責任を負えばいい。
 
荘子はこの世の中のすべてに道が貫徹しているという。
あらゆる存在の根源であり、あらゆる存在を支配している根本原理である。
こうした道から見れば、すべての事物に差別はない、是もなければ非もない、善もなく悪もない。価値のあるもの、価値のない物と言った区別もない。
仮に差別があるように見えてもそれは単に一時の事で、そのような差別に捉われる事はおろかな事だと荘子は言う。
これは万物斉同の説ともよばれている。
この老荘道教の道の哲学は難しい。
荘子の思想を辿って行くと、いつの間にか、仏教、禅でいう悟りの世界へ導かれてしまう。
今まで吾らが価値ある物と思ってきたものが、本当に価値のある物なのか、疑問に思う事に出くわす。
もっと視野を広げて見たら、真実が見えてくるかもしれない。
等と発想の転換を促してくれるそんな書であることに気が付く。
とは言っても現に世の汚濁に毒された者にとって何が真で、何がが虚なのか区別がつかない。
 
上下四方極まりのない宇宙から見れば地球上の出来事など小さな小さな出来事である。
その様な微細な利害関係に捉われない態度が、荘子は現実を超越するということなのだという。
とは言っても、我々の住む現実の世では、諸々の柵の中で生きていかなければならない、それが人間と言う生き物の人生なのである。
荘子の言うように世の物事の価値判断を為し、認識するにはいかにするべきか、通常の認識ではなくそれは世俗の事柄を超越した認識方法、則、五感を超越した認識方法に依る必要がある。
これはまさに悟りの境地とも言うべきものであろう。
悟りは人間の境地を一変する。
世の真実と己の心は直接向かい合う、五感を超越した認識方法である。
此処に老子とは違った、荘子独自の超越的立場が見える。
では荘子の言う世界は無用なのか・・・ともいいきれない。
この世の中の価値は相対的なものだと荘子は言う。
そんなものに捉われて、目の色を変えて四苦八苦しているなどはおろかな事だと言うのである。
将に、それに捉われて目の色を変えているのが今のわが身なのだということである。



参考文献
荘子             福永光司著       中公新書
諸子百家          湯浅邦弘著       中公新書
中国古典の人間学     守屋 洋著       新潮文庫
老子 荘子          世界の名著       中央公論社






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