徒然の書

思い付くままを徒然に

ギリシャ神話の死生観 その壱


如何に科学が発達したとは言っても、古いことは何も分かってはいない。
ただ推測して判ったような心算になっているだけの事である。
宇宙はビッグバンによって形成されたとは言っても、ビッグバン以前はどの様な状態であったのか、何も判らない状態の中で、宇宙を形成する程の大爆発が如何してどのような形で、爆発したのか。
宇宙が出来た時に、現在の宇宙空間の様に様々な数多くの星々はどの様な状態であったのか。
何も確かな事が解らないまま、宇宙の話が進められている。
同じことが地球上のあらゆることにも共通して単なる推測で、物事が進められている。
恐竜が現れた、猿が現れた、人間が現れた、と言ってもどの様にして現れたのか全く分かっていない。
推測すら出来なかろう。
ギリシャ神話でもわが国の神話でも、次々に作り出されるのは神ばかりで、人間が創り出されたとは書かれていない。
それから比べると、荒唐無稽な馬鹿馬鹿しい、有り得ない話だが、旧約聖書の創世記などには土から人間を作り出したなどと書いている。
ユダヤにしても、キリストにしても将又イスラムにしても、、俺は神だなどという嫉妬の塊みたいなヤハウエーなどと言う得体の知れないものを一生懸命拝んでいる。
そんな人間に何故拝むんですかと聞いても的確な答えは返ってこない。
何故拝んでいるのか自分でも判ってはいないのだろう。
人間と言う生き物、実に面白い。
得体のしれないものを拝んで安寧を得たかと思うと、同じ得体の知れないあの世と言うものに計り知れない恐怖を感じている。
言い換えれば、神を拝む者、死を恐れるもの、すべて此の世で悪行を行っていたものと言うことが出来る。
この世と別れて、魂は次の世へと導かれるが、すべて地獄と言われる所へ導かれ、悪行に対する制裁的体罰の報復を受けるところへ導かれるわけではない。
天国と言う、病気も飢餓も老いも死もないところも用意されている。
それでも、死と言うものは恐ろしいという事は、己は絶対天国には行けないと思っているからに過ぎない。
死を恐れる生きとし生けるすべての人間がこの世で悪を行っているということである。
ギリシャ神話や我が国の古事記などに比べると、旧約聖書には人間を作り出した記述がある。
ところがギリシャ神話や我が国の神話は神ばかりを作り出して人間と言う生き物を作り出した記述がない。
ギリシャ神話では僅かに女と言う生き物を作り出した記述はある。
そう、パンドラである。
人間を作り出したという記述はないが、人間共と言う表現は時々記述に現れている。
特に我が国の神話に於いては人間と言う生き物は全く現れていない。
我が国の人間については神話の時代から歴史の時代に移ってから、いつの間にか搾取する対象として人間が生活しているのである。
我が国の神話や聖書の神話の様に荒唐無稽な、ただ馬鹿馬鹿しいだけのものは捨て置いてギリシャ神話について語ろう。
 
いずれにしてもギリシャ神話の死生観と言っても死ぬのは人間だけであり、神は死のない永遠の生命を得ているのだから神にとって死生観など問題になることもない。
 
ギリシャ神話の世の始まりからゼウスがオリンポスの主になるまでについてはヘシオドスが神統記に詳しく書いてはいるが、その時点でも人間と言う生き物はギリシャ神話に登場することはなかった。
即ち未だ個々の人間は存在していないのである。
だが神統記には時として人間どもと言う表現が為されており、神と人間どもと一線を画している表現が為されている。
 
シュメルの神話の様に己の代わりに働く者として人間を創ったと、簡潔に書かれた方がよほどいい。
ギリシャ神話では人間の出現は荒唐無稽、滅多矢鱈に馬鹿馬鹿しいことが民間伝承として伝わっている。
とにもかくにも、ギリシャにも人間が存在する様になったのだが、先に少しふれたが、もう少し話が進むまで、男ばかりで女の存在はなかった。
それでは都合が悪いと考えたのだろう、女とみれば見境なく手をつけるゼウスにすれば、どうしても人間の女は必要であったのだろう。
そこで世によく知られたパンドラを人間界に送るのだが、後智慧しか回らないエピメテウスがゼウスの策に引っかかって、パンドラを迎え入れてしまう。
世にパンドラの壺の話である。
神の世界にも後智慧しか回らない阿呆がいたのである。
この話は、ヘシオドスの仕事と日に描かれているのだが、この説話は実に含蓄のある説話であり、神と人間との関係はその間に厳然と一線が画されていることを示していると言える。
ただ、ギリシャ神話に描かれている神々は人間が行うありとあらゆる悪行を同じ様に行い、時には特別な力を持っているだけに人間より悪辣な行いをすることもある。
この世にある悪行と言う悪行は神々を生み出していく過程で、同時に生み出されたものである。
子に対する愛情なども人間と同様に子煩悩な事もあれば、ゼウスの様に悪辣な根性の持ち主は己の子を冥界へ送り込んでも平然としている奴もいる。
この人間臭さを持つギリシャの神々と人間との違いは、人間には死が絶対であるが神々は不死であるという決定的な違いがある。
この人間にとっての絶対的な謎である死と言うもの、人は死ぬとどうなるのか。
この生の世界から何処へ行くのか、死とは何なのか、この難しい問題に直面するのが人間なのである。
それを誇大に扱って、人間を己に従わせようとするのが、神と称する者たちで、宗教と言われるものである。
未だ過って誰も確かめたこともない謎の世を誇大に喧伝し、地獄と言うものの過酷さを吹聴して、人間に恐怖を抱かせる宗教などと言うものに惑わされて戦々恐々としているのが人間と言う生き物なのである。
誰も知らない、誰も経験したことのない世界を何故恐れる必要があるのだろうか。
よく言われる様に、この世に守るものがある者は死を恐れる。
確かに守る必要のあるものを残して、世を移るのは未練が残る、その心情は判らないでもない。
それ程この世と言うものに不安感があるということなのである。
人間と言う生き物、何れみな死と言うものに遭遇する。
これだけは絶対の真実である。
 
メソポタミアのシュメールの洪水伝承を取入れたのが、ゼウスであり、ヤハウエーであった。
己に従わなくなった人間共を絶滅すべく洪水を起こし、すべての人間と生き物を葬り去ろうとし、己に従順な者のみのの世を創ろうと計った。
彼らの目論見からすれば、方舟伝承以後の人間は神に従順で、貢物をし崇め奉る人間でなければならなかった。
ところが人間と言う生き物、そう簡単には神に従う、善良な生き物ばかりではなかった。
ヤハウエーなどは馬鹿の一つ覚えの如く、己に従い己を崇めよとは言うが、人間と言う生き物それほど単純ではない。
それで地獄などと言うおどろおどろしいものを創りだして人間に恐怖感を植え付けるように仕向けた。
それに引き替え仏陀などは己を崇めよなどとは一言も言っていない。
ミルトンが失楽園でアダムとイヴが神に逆らい、追放されてもまだ救いがあるなどと書いてはいるが、ヤハウエーなどと言う専制君主の様な暴神に背くのは当然と言えば当然なので、死を迎えても、いつ来るともわからない最後の審判まで宙に彷徨う己の魂の姿を思いやる時、その様なものに従おうなどと思うほど人間と言う生き物は呆けた生き物ではなかった。
更にダンテの言うように九層の地獄などと脅してみても、神自体が悪行の限りを尽くすようでは人間を説得するのは無理な様である。
 
ギリシャ神話では、神は不死とは言っても、一度冥界へ行って、その食べ物を食べると再び光の世界、即ち生の世界へ戻ることは出来ないという。
これはギリシャ神話の女神デメテルと娘神ぺルセポネの神話で、ぺルセポネが冥界の女王になった神話として語られている。
ぺルセポネはゼウスとデメテルの間の女神でハデスの冥界などに住む事もないのだが、ゼウスと共謀したハデスに拉致され、騙されて冥界の物を食したために、生の世界へ戻れなくなってしまう。
とは言え、ゼウス、デメテルの娘であってみればそれなりの方法もあったのだろう。
一年の内の一時期だけ冥界に住むことで、母神のデメテルも納得したようである。
カオスから生じたガイアが生み出したものは、ウラノスにしても。クロノスにしても、その子のゼウス、ハデスにしても人間にとってはあまりいい神ではなかったようである。
ギリシャ神話の神々には死は訪れないのであるが、我が国の神話では神であっても冥界へ直行して蛆にまみれた屍をさらすらしい。
この話は語りだすとまた長くなるので、次へと・・・・
 
 


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