徒然の書

思い付くままを徒然に

八重の桜花

花見で有名な秀吉の花見は吉野の山か醍醐の花見。
この頃の桜の種は山桜が圧倒的であったのだろう。
山桜はソメイヨシノなどにさきがけて、咲き始める吾がとてもこの鵡花である。
その殿を受けて咲くのが里桜と呼ばれる八重の桜である。
里桜は、今でいう園芸品種全般を指していると言われている。
いま桜の時期も終焉を告げようとしている。
我が家の近くでも、様々な里桜が景色をピンクに染めて誇らしげに咲いているが、もう数日で終わりを告げるだろう。
同じ八重の里桜ではあってもその花の色や大きさによって、その美しさには大層な差がある。
ふと思い出したのが、伊勢の大輔が詠ったというあの歌・・・・・
何時思い出して呟いても、詠の解らない吾でさえもいいな~って感じる。
あれはいわゆる、奈良の八重桜の一枝を見て、当意即妙に歌ったと言われているが、伊勢の大輔の見事な才媛ぶりである。
 
奈良の八重桜で有名な過っての興福寺の八重桜って、まだ生きているのだろうか。
一条天皇中宮璋子の頃。
永延2年(988年)~ 承保元年(1074年)千数十年も前の桜木。
桜の寿命は本来とても短いと聞いたことがある。
生き続けたとしても人間様の手によって、延命に延命を重ねて、現代に生き続けているのだろう。
それでも、春には観賞に堪えられるだけの花を咲かせるのなら、人間様の延命の様に寝たきりで生き続ける延命措置よりもはるかに意義がある。
この璋子皇后の頃ならの八重桜は興福寺の桜として名を馳せていたところ、璋子が宮中に移植しようと試みたところ、興福寺の坊主によって阻止されたという話も聞いたことがある。
この時代の宮中は望めば何でもできると思っていた、それが拒否されたのだから相当のショックであったろう。
しかし、相手が坊主であってみれば、ごり押しすることもかなわず。天皇に献上される、桜の一枝で我慢する以外になかった。
この璋子が運び出そうとした、桜そのものは現代には残っていない様で、それと同品種のものらしき桜が、奈良の八重桜として珍重されているのだろう。
故ぼ原木とされたものから取り出される苗木が今後も奈良の八重桜として、引き継がれていくのであろう。
 
この璋子が運び出そうと試みた興福寺の八重桜はその後、花が咲くと天皇にその一枝を献上するようになり、その受け取り役が璋子に仕える女官に充てられていた。
その時、受け取り役の紫式部が意地の悪さを発揮して、新人の伊勢の大輔に受け取りをさせた。
出典の詞花和歌集には・・・・
一条院御時ならの八重桜を人の奉りて侍りけるを、その時御前に侍りければ、その花をたまいて歌よめと仰せられければ読める、とある。
 
 いにしえの 奈良の都の八重桜 けふここのへに 匂ひぬるかな
 
 
と万座の注視の中で当意即妙に読んだ、才気に感嘆したと言われている。
伊勢の大輔がこの八重桜を受け取る大役を紫式部より譲られたとは書かれているが、式部の陰険な作為、新人虐めによって、受け取りを強要されたと云った方がいい。
歌の読めない紫式部などではとても太刀打ちできない才であった。
式部には大輔の詩の才を見抜けなかったという事であろう。
何時の時代も、男であれ女であれ、人間と言う生き物のその性の薄汚さが変わる事は無い様である。
弱い者いじめは千年も前、いや太古の時代から我が国に蔓延っていたらしい。
また式部が物語を書いたとは言っても、そのような業績など、人間の性根の薄汚さには全く影響がないという事であろう。
この歌はあちこちに収録されている様だが、万葉集にも収録されている。
 
 
 
 
 
 
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