徒然の書

思い付くままを徒然に

弓削の道鏡 その壱


道鏡が何時生まれたのか、道鏡と言う法名をもらう前の名前も解らない。
系譜なども確かではないが 河内国若江郡の出で、道鏡の父は弓削村の長であったが無位だったという。
俗姓は弓削連。物部弓削大連守屋を遠い祖先とする。
続日本記などを見ても道鏡に関する記述はほんの僅かである。
鎌倉時代に巨根伝説が現れ、江戸期になると道鏡を道化者にしてしまった。
それはそれで愛嬌もあり、庶民の間の語り草として語られていれば罪はない。
昭和の時代になって、急速に天皇を神格化しようとする阿呆な輩が現れて、道鏡天皇位簒奪を目論んだ、悪人に仕立て上げてしまった。
道鏡も草葉の陰で、後世の日本人の軽薄さに苦笑いしていることだろう。
いずれにしても、道鏡の記録はないに等しい。
続日本記に書かれたことも、どれほど榛が置けるか疑問である。
世に現れた道鏡について書かれたものは殆どがフィクションだと思っていい。
扨、弓削の道鏡黒岩重吾の小説は道鏡に捧げた可愛い女の純愛として書かれたと、私は思っているのだが間違いであろうか。
仲麻呂に捨てられ、その挙句精神を病んだ孝謙が、道鏡によって平常な状態に回復した喜びが純粋に愛情に変化していった。
惚れたものには己の為せるあらゆることをしてやりたいと考える四十女の悲哀であるのかも知れない。
だが四十女で、結婚も出来ない身分であれば、己すべてを掛けた乙女のような愛情と考える事もいいのではなかろうかとも思う。
孝謙にしてみれば、ただ一つの心残りは道鏡の子を産めなかった事ではなかったろうか。
当時とすれば、三十を過ぎれば閨辞退であったことを考えると、女が五十過ぎまで楽しめたことは幸せであったのかも知れない。
 
道鏡はと言えば、彼が青年の頃、葛城山に入って修行したと言われている役小角に憬れて、信貴山辺りの山で滝に打たれて、修業の真似事をしていた。
村長とは言ってもこの時代、村と言う呼称はまだない。
若者は村の小さな寺の住持に私淑していた。
この小さな寺の坊主は破戒坊主ではあったが、都の有力筋の法師に交誼があった。
義円の弟子でもあった様で、行基とも交誼があった法師である。
この破戒法師により、道鏡は法師として世に出ていくことになる。
時として師に連れられて、皇位の人と会うこともあったようであるが、いずれも道鏡の醸し出す雰囲気に大物の素質を感じていたらしい。
 
その頃大宝律令に続いて、養老律令が実施されていた。
民百姓の租庸調の負担は重くなるばかりである。
この頃の天皇貴族は優雅な暮らしをし、貴族に至っては只々位階の上昇即ち出世する事ばかりが頭の中を占めていた。
道鏡の青年時代は聖武天皇の治世で、毘盧遮那仏いわゆる大仏建立に血道をあげ、民の賦役や税の負担が極端に民に覆いかぶさっていた頃である。
この聖武不比等の娘の子で、外孫になる。
聖武となる前の皇子としての名前は首皇子と言った。
乳母日傘で育てられたこの首皇子皇位に付けるために次々に繋ぎの帝を作っていった。
その育ちの所為か柔弱な天皇であった。
難波に行幸した際に、知識寺で見た廬舎那仏に魅せられて、己もこのような仏像を造ろうと思ったのが切っ掛けで、民百姓の困窮も考えずに大仏建立にのめり込んでいる。
 
黒岩重吾の小説弓削の道鏡からその生涯を通して、どの様な人物であったか、大多数はフィクションではあっても、世に言われる様な悪人であったかどうか位のことは窺い知ることが出来るかも知れない。
私淑していた法師によって、法師への道を歩むことになるが、葛城山に篭もって如意輪法を修行し、また密教の宿曜秘法を習得したという。
また大僧正義淵の晩年最後の弟子でもあった。
義淵に法相宗を学んだとも言われているが、義円の没年から考えると疑問である。
義円から山籠もりの修行を勧められた事は確かな様である。
道鏡が禅修行は早くから行っていたこともあり、唐帰りの道昭が禅修行を行っていたことから考えると、道鏡法相宗の知識は道昭によるものと考えた方がいい。
禅の意は心を静にして思慮すれば、悟る処ありとする思惟宗である。
道昭も元興寺に禅寺を建てて住んだと言われている。
道鏡葛城山に籠り禅の修行に励んだのも道鏡が道昭を師とする法相宗の僧であったからであろう。
道鏡が後に飛鳥元興寺に移って修行する様になって、神叡から梵文を学ぶ様になる。
神叡は唐から渡来した僧で、当時朝廷から扶持をもらっており、梵文に通じている稀な僧であった。
当時道鏡はまだ二十歳前後であったろう。
この時代即ち奈良朝時代は都が奈良に移されて以降、桓武が長岡へ遷都するまでの、凡そ七十年の間を言うのであるが、この時代天皇を取り込んだ藤原と皇親政治の復活を目論む貴族たちとの確執が表面化して、血なまぐさい風が吹き荒れていた。
道鏡にとってはこの変転する不安定な世は格好の登場場であったと云えよう。
世が乱れた時、往々にして偉大な人物が現れる事がある。
奈良時代の僧は、出世と贅沢を尽くすことに現を抜かす、無為徒食の貴族と違って、世の知識層と言われている。
僧たちが山籠もりをし、過酷な修行をしている間も、朝廷や貴族と言われる無為徒食の輩、只々民百姓に寄生して贅沢三昧の生活をしてたにも拘らず、他人が世に出て己らを追い越していくことに羨望し、嫉妬して、姑息な手段を弄して葬り去ってきた。
その最たるものたちが藤原一族と言うことが出来る。
その一族の頭の中たるや、人を陥れ葬り去ること以外何の知識もない輩で、道鏡の足元にも及ばない。
藤原一族は己たちのみ繁栄すればよいという輩の集りであった。
 
そもそも道鏡が収めた様々な知識の中の法相宗とはどんな宗派なのだろう。ちょっと覗いてみよう。
唯識を基本とする宗派であるが、その唯識とはそもそも何なのか・・・
この唯識を論じると大変なことになってしまうのだが、法相宗を我が国に持ち込んだのは誰なのかということなのだが、最初は遣唐使と共に唐に渡った道昭、であるが、百済系の渡来人である。
帰国してのち、元興寺飛鳥寺とも云うのだが、ここに住んだと言われている。
二回目、三回目と三段階にわたって持ち込まれるのだが、三回目に持ち込んだのは文武帝の勅に依って唐に渡った智鳳、智雄で、帰国後法相宗を広めたとされている。
義円はこの智鳳の弟子であるという。
義円の弟子は天平の頃、次々に名を挙げ、奈良朝に於いて錚々たる門下生を輩出している。
先にも書いたように唯識法相宗の根本理論であり、大変難しいが道鏡がどの様な学問を学んでいたのかその片鱗を見てみるのもよいかもしれない。
唯識とは森羅万象はただ一つとして心識の外には存在せず、心識のみが存在するという説である。
その解説は難解であるが黒岩重吾が小説の中で世界大百科事典からわかり易く特色を述べている部分を抜粋しているので、さらのその部分を抜粋してみると・・・・・
法相宗は人間の心識の本体の働きを離れてそれ以外に如何なる実在もないという立場で、心の構造を分析する唯識の学説を奉じる。
同宗の学説の特色は五官及び意識の常識的な認識作用の他に執着することを特色とする末那識、それらを蔵し万象の展開の拠り所となる阿頼耶識の八種の識を建てて、我々が自分の心の外にあるとしている物心の諸現象は前述の八識それ自体が主観と客観とに変じて現れて、認識対象に似た姿を心の内の影像として写し、実在であるかのように認めているに過ぎないとする。
他の学説との論争が多く、その中心となるのは、生きとし生けるものすべてが仏になり得るとするのに対してこの学説は先天的に仏になり得ない種姓のものがあるというのであって、他の宗派には見られない特色を示している。
 
文字も知らない、学問とは凡そ無縁な人々と違って、僧はこの時代知識人であった。様々な仏典を読破し、建築技術学び、あるいは浚渫土木に長じ、宇宙の節理や様々な仏法の法理を学び、病を呪力あるいは念力を以て癒す事を試みるのは僧以外にはいなかった。
鎌倉時代に端を発した道教の巨根伝説は江戸の頃には道鏡を笑いものにしていた。
明治から昭和にかけて、のぼせ上った輩によって天皇は神聖にして犯すべからず、などと阿呆なことが罷り通って現人神などと言う輩が跋扈した。
とは言っても、明治の頃は薩長の食い詰め武士や足軽中間、公家どもが権力を手にして舞い上がった者どもであったが、出自が出自だけにそれ程ものを考える頭はなかった。
が現人神などと言う阿呆な事を言い出したのは昭和になって、権力を握った制御の効かなくなった阿呆な輩たちであった。
そして和気清麻呂や楠正成ばかりが持て囃された時代であった。
それらの輩が未曾有の敗戦をもたらす戦争へと導いていったのである。
 
江戸時代は逸物の大きさから性豪の代名詞として笑いものになっていた道鏡がさらに悪者となったのは昭和に入ってからである。
戦前の日本は天皇を現人神と奉り、天皇は神聖にして犯すべからざる存在として君臨し、国体を守ったとして、天皇に味方した和気清麻呂や楠正成は忠臣とされ学校教育にまで使われていた、。
その神聖である天皇の座を狙った道鏡はとんでもない悪僧であると喧伝した。
和気清麻呂などは天皇の意を受けて宇佐八幡へ調査に出かけたのであるが、天皇の意に沿わない報告をして九州の西の果てへ流された男である。
清麻呂の姉は称徳天皇の側近の女官であったが、この姉弟天皇の信頼を裏切って、貴族側に付いた不忠者であったはず。
理由は如何あれ己を信頼した天皇を裏切った国賊でもあった。
和気清麻呂をたたえた昭和の馬鹿は道鏡憎さのあまり筋の通らないものを英雄に仕立てた、馬鹿の骨頂と言うべきであろう。
そして教育勅がなどと言って、子供たちを洗脳していった時代でもあった。
日本人と言う民族の阿呆さ加減を代表する様な輩が昭和の時代に存在したのである。
その惨めな国状を経験して、まだ百年もたたないうちに、またぞろ阿呆な事を目論んでいる輩が良からぬことを企み始めた様である。
道鏡はその様な時代に登場したのである。
道鏡の未来を予測するかのような激しい時代であったと言える。
その争いの一方の長屋王天皇の皇子で、優雅な遊びをする文人貴族であったが、藤原四兄弟にとって邪魔な存在であった。
道鏡が法師となって修行を続けている時代は不比等が死に、その子たちが全盛を誇った時代であったが、丁度その頃都に瘡が蔓延して藤原四兄弟が何れも死に至ったのである。
予期せぬ不比等の子四人の死後、藤原氏の勢いが急速に衰えて行った。
その翌年、天平十年春には安倍の内親王が女で初めての皇太子に冊立された年でもあった。
藤原兄弟の死の後を受けて、橘諸兄が台頭して右大臣となり、唐から帰国した留学僧の玄肪や吉備真備聖武天皇を支え、信任を得、勢いを得て行った。
九州では死んだ藤原宇合の子藤原広継が玄肪・真備の追放を求めて乱を起こすが、すぐに平定されてしまうが、乱後も聖武の動揺はおさまらず、東国へ行幸すると言って平城京を出ていくことになる。
 



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この道鏡の頃より少し時代が下ると、宮仕えする女官たちの文学が一気に花開いた。
今の世に蜻蛉日記と呼ばれ得る古い日記風の文学が残っている。
この日記は道綱の母と呼ばれる女が書いたものだが、
色好みの夫を持つ女の悲哀が描かれている。
それにしても、女の心の荒ましさに恐れを感じると同時に、哀れを感じる。
この文学がなかったら、源氏物語枕草子もこの世に存在したかどうか。
その中に源氏物語と言う長編の小説を書いた紫式部と言う女がいた。 
このムラサキの果実を付けた木を紫式部と言う。
その女官の名から借用したのだろうか。




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