弓削の道鏡 その壱
俗姓は弓削連。物部弓削大連守屋を遠い祖先とする。
続日本記などを見ても道鏡に関する記述はほんの僅かである。
それはそれで愛嬌もあり、庶民の間の語り草として語られていれば罪はない。
道鏡も草葉の陰で、後世の日本人の軽薄さに苦笑いしていることだろう。
いずれにしても、道鏡の記録はないに等しい。
続日本記に書かれたことも、どれほど榛が置けるか疑問である。
世に現れた道鏡について書かれたものは殆どがフィクションだと思っていい。
惚れたものには己の為せるあらゆることをしてやりたいと考える四十女の悲哀であるのかも知れない。
だが四十女で、結婚も出来ない身分であれば、己すべてを掛けた乙女のような愛情と考える事もいいのではなかろうかとも思う。
当時とすれば、三十を過ぎれば閨辞退であったことを考えると、女が五十過ぎまで楽しめたことは幸せであったのかも知れない。
村長とは言ってもこの時代、村と言う呼称はまだない。
若者は村の小さな寺の住持に私淑していた。
この小さな寺の坊主は破戒坊主ではあったが、都の有力筋の法師に交誼があった。
義円の弟子でもあった様で、行基とも交誼があった法師である。
この破戒法師により、道鏡は法師として世に出ていくことになる。
民百姓の租庸調の負担は重くなるばかりである。
この頃の天皇貴族は優雅な暮らしをし、貴族に至っては只々位階の上昇即ち出世する事ばかりが頭の中を占めていた。
その育ちの所為か柔弱な天皇であった。
難波に行幸した際に、知識寺で見た廬舎那仏に魅せられて、己もこのような仏像を造ろうと思ったのが切っ掛けで、民百姓の困窮も考えずに大仏建立にのめり込んでいる。
また大僧正義淵の晩年最後の弟子でもあった。
義淵に法相宗を学んだとも言われているが、義円の没年から考えると疑問である。
義円から山籠もりの修行を勧められた事は確かな様である。
禅の意は心を静にして思慮すれば、悟る処ありとする思惟宗である。
道昭も元興寺に禅寺を建てて住んだと言われている。
神叡は唐から渡来した僧で、当時朝廷から扶持をもらっており、梵文に通じている稀な僧であった。
当時道鏡はまだ二十歳前後であったろう。
この時代即ち奈良朝時代は都が奈良に移されて以降、桓武が長岡へ遷都するまでの、凡そ七十年の間を言うのであるが、この時代天皇を取り込んだ藤原と皇親政治の復活を目論む貴族たちとの確執が表面化して、血なまぐさい風が吹き荒れていた。
道鏡にとってはこの変転する不安定な世は格好の登場場であったと云えよう。
世が乱れた時、往々にして偉大な人物が現れる事がある。
奈良時代の僧は、出世と贅沢を尽くすことに現を抜かす、無為徒食の貴族と違って、世の知識層と言われている。
僧たちが山籠もりをし、過酷な修行をしている間も、朝廷や貴族と言われる無為徒食の輩、只々民百姓に寄生して贅沢三昧の生活をしてたにも拘らず、他人が世に出て己らを追い越していくことに羨望し、嫉妬して、姑息な手段を弄して葬り去ってきた。
その最たるものたちが藤原一族と言うことが出来る。
その一族の頭の中たるや、人を陥れ葬り去ること以外何の知識もない輩で、道鏡の足元にも及ばない。
藤原一族は己たちのみ繁栄すればよいという輩の集りであった。
義円はこの智鳳の弟子であるという。
唯識とは森羅万象はただ一つとして心識の外には存在せず、心識のみが存在するという説である。
その解説は難解であるが黒岩重吾が小説の中で世界大百科事典からわかり易く特色を述べている部分を抜粋しているので、さらのその部分を抜粋してみると・・・・・
同宗の学説の特色は五官及び意識の常識的な認識作用の他に執着することを特色とする末那識、それらを蔵し万象の展開の拠り所となる阿頼耶識の八種の識を建てて、我々が自分の心の外にあるとしている物心の諸現象は前述の八識それ自体が主観と客観とに変じて現れて、認識対象に似た姿を心の内の影像として写し、実在であるかのように認めているに過ぎないとする。
他の学説との論争が多く、その中心となるのは、生きとし生けるものすべてが仏になり得るとするのに対してこの学説は先天的に仏になり得ない種姓のものがあるというのであって、他の宗派には見られない特色を示している。
文字も知らない、学問とは凡そ無縁な人々と違って、僧はこの時代知識人であった。様々な仏典を読破し、建築技術学び、あるいは浚渫土木に長じ、宇宙の節理や様々な仏法の法理を学び、病を呪力あるいは念力を以て癒す事を試みるのは僧以外にはいなかった。
明治から昭和にかけて、のぼせ上った輩によって天皇は神聖にして犯すべからず、などと阿呆なことが罷り通って現人神などと言う輩が跋扈した。
が現人神などと言う阿呆な事を言い出したのは昭和になって、権力を握った制御の効かなくなった阿呆な輩たちであった。
そして和気清麻呂や楠正成ばかりが持て囃された時代であった。
それらの輩が未曾有の敗戦をもたらす戦争へと導いていったのである。
江戸時代は逸物の大きさから性豪の代名詞として笑いものになっていた道鏡がさらに悪者となったのは昭和に入ってからである。
そして教育勅がなどと言って、子供たちを洗脳していった時代でもあった。
日本人と言う民族の阿呆さ加減を代表する様な輩が昭和の時代に存在したのである。
その惨めな国状を経験して、まだ百年もたたないうちに、またぞろ阿呆な事を目論んでいる輩が良からぬことを企み始めた様である。
閑話休題、
道鏡はその様な時代に登場したのである。
道鏡の未来を予測するかのような激しい時代であったと言える。
この道鏡の頃より少し時代が下ると、宮仕えする女官たちの文学が一気に花開いた。
今の世に蜻蛉日記と呼ばれ得る古い日記風の文学が残っている。
この日記は道綱の母と呼ばれる女が書いたものだが、
色好みの夫を持つ女の悲哀が描かれている。
それにしても、女の心の荒ましさに恐れを感じると同時に、哀れを感じる。
このムラサキの果実を付けた木を紫式部と言う。
その女官の名から借用したのだろうか。
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