徒然の書

思い付くままを徒然に

犯罪に於ける科学捜査 その弐

科学の発達は目覚しくアメリカあたりで開発された科学捜査の研究技術が我が国にも取り入れられているのだろうが、人間自体を科学する捜査は医学が必要なだけに、我が国でも太刀打ちできるだろうと思っていたが、ドラマを見る限り我が国の人間を対象とする科学捜査即ち法医学ではあっても、四半世紀は遅れているような気がする。
アメリカ人は上に対しても自由に討論し意見をの述べるが我が国では先輩後輩でさえその地位から押さえつけようとする。
人間自体を対象とする科学捜査は凡そ法医学の分野に入るのだが、その法医学であっても我が国とアメリカとでは大きな相違がある様な気がする。
我が国とアメリカでは犯罪規模の様相がまるで違うことを考えると、単なる解剖学などでは法医学としては太刀打ちできない様な物の考え方の相違がある様な気がする。
例えば自動車事故で、運転者が死亡したが、血中のアルコール濃度が法定値をはるかに超える結果が出た。
家族の訴えで本人はアルコールを嗜まないと訴えた場合、日本の警察ならどうするだろうかと思う。
単なる言い訳としか考えず、再考することなど及びもつかないだろう。
我が国の場合、100%酩酊運転による事故と簡単に結論づけてしまうのが目に見えている。
恐らく単なる責任逃れの言い訳として放置するだろう。
虎の皮を冠った我が国の警察は恐ろしい。
いや、警察に限らず、我が国ではありとあらゆる所に権力の片りんが顔を出す。
日本人ってその程度の人種なのであろう。
国民のためになどとは頭の片隅にもない政治屋を選ぶために喜々として投票に行く。
国民をいじめる事しかしない政治屋を選び、己の首を絞めることになるとも知らず、連れ立って投票所の門をくぐる。
 
ところが、アメリカは違った。
その訴えに従って、すぐに遺体の再検証に入った。
これなど、外注に出した解剖などでは全く考えにも及ばないだろう。
アルコールの血中濃度の測定にも偽陽性と言うことが有り得る。
人間が死亡した場合、体内のバクテリアによって、エタノールが発生する事もありうる、という。
死者の眼球の水晶体いわゆるガラス体から再検査を試み、アルコールを摂取していないことを突き止めた。
恐らく日本の科捜研辺りでは、この結果に気の付く者は恐らく皆無であろう。
そこまで頭の発想の柔軟な、優秀な技官はいないと断言できるのではなかろうか。
思い込みと言うのは恐ろしいものであり、こんな鑑定によって、裁判官が巻込まれ誤判を惹起すると、不利益を被る者が哀れである。
人が人を裁く恐ろしさは、このような処にも表れていることを銘記すべきである。
こんな処にも法医学は役立つが、果たして我が国の警察あるいは科学捜査研究所のどれ程の人間が、この手間をかけて濡れ衣を晴らす行動を起こすだろうか。
と言うより、飲酒検査で陽性の判定が出たら、如何に主張しても偽陽性など考えるものなどいなかろう。
我が国の人間とアメリカの人間を比べた場合、アメリカ人には人間としてそれ程の余裕があるということである。
我が国の人間性はただ生真面目で思い込んだら命がけ的なユーモアも余裕も感じられない一途さが支配している。
これは、一面実に恐ろしいことである。
この様なただ生真面目だけが取り柄の人間性が裁判官の頭を支配していたら、裁判に先入観を排除するなどとお題目を唱えても、全く無意味であるということである。
アメリカと日本の権力主義の決定的な相違がこんなところにも表れている。
日本の警察では、いや医者であってもそれ程の知識のあるものは少なかろうが、要は権力で押さえつけれるところは、たとえ己が間違っていても平然としているということである。
我が国の人々の物の考え方ではなく、アメリカ的な物の考え方があらゆる人々に徹底しているのである。
ドラマなどもその様なものを好んで作っている様だ。
犯罪解明の法医学は解剖は勿論の事、血に関する医学、いまはやりのDNA に関する問題も重要な要素である。
ABO式の血液型の判別、DNA判別も様々な試料から判別している。
アメリカのドラマなどで描かれるDNAを判別する試料として不可能と思える様なものからも採取して成功する場面が良く描かれることがあるのだが、医学の常識からすると不可能な場合、我が国であったら如何するだろうと思う事が度々ある。
DNAを取り出す事の出来る試料は技術の差によって大きく変化するだろう。
指紋が付いているとも思えないものあるいは流れてしまったともわれるものからの採取など技術の差が、それを扱うものの考え方の差が出るところであろう。
その結果を出す速度たるや、あっという間に判定できる様だが、我が国のドラマや小説などを読んでいると随分と手間がかかるように作られたり、書かれたりしている。
尤も、技術などは日進月歩だからその時は随分と悪阻あったのだろう。
これはドラマの中の出来事ばかりとは言えない様な気がする。
犯罪の科学捜査に於いて、物理や化学応用の検証は比較的容易な面があるが、人間を対象とする検証は医学が絡むだけに、なかなか難しい様に思う。
いわゆる法医学である。
法医学の本来の目的は公安を保つためのものなのであろうが、犯罪捜査の一場面として登場するとき人権を守る唯一の科学であろう。
とは言っても、人権意識の薄い我が国に於いて、法医学が示した結論を裁判当事者がどの様に扱うか、法医学自体をどの程度理解しているか、それが問題である。
これ等の科学が示したデータ―を受けた捜査陣がそれをいかに解釈するか、解釈の仕方によっては全く違った場面になってしまう。
当然鑑識と言うものをに精通している必要があるのは当然である。
我が国の警察、検察でそのデータ-を理解しうる知識を有しているものがどれほど存在するだろうか。
データーの解析一つで全く違った方向へ捜査が進んでしまうこともあることを認識すべきである。
アメリカなどでは、例えば捜査側が鑑識で出した血液に関するデータを得る場合に、その血液がただの一滴であって、弁護側で独自にその血液から検証できない場合その血液から入手した資料は証拠能力が認められない。
それ程被告即ち犯罪者であっても、人権が守られているのである。
我が国では及びもつかない人権の尊重である。
我が国では権力者の権力は絶対であると思っている。
アメリカの人権重視の考え方と比較すると、我が国の人権と言っているものは単なる言葉だけで実質の伴わないものであると云っていい。
即ち我が国では人間として、生れながらにもっている人権と言うものは存在しない、と言っていい。
我が国の権力者は、国民の人権などと言うものは、権力によってあたえたものと思っている。
それは、警察、検察機構の権力は勿論の事、裁判官に於いてさえその様に考えている。
それ程我が国の国民の人権意識が希薄であるということである。
そう考えてみるとわが国ほど恐ろしい住みにくい国はない。
法医学の知識が一般に普及して、それがすべての裁判に活用される様になると、不合理な操作も行われなくなり無実の人が有罪に判決を受ける事もなくなる、という意見もあるが、現在の我が国の犯罪捜査はいかに科学が発達し科学捜査が行われても、長年身に付いた捜査方法、即ち自白偏重の捜査方法はなくなることはない。
自白偏重の捜査を無くすには、犯罪者と云えども人権を尊重し、アメリカの様な弁護士立会いの捜査即ち被疑者を尋問するとき、弁護士立会いの取り調べ要求をを認める以外にない。
一般人を含めて、それら司法に携わる民間人および官憲の法医学を含めた鑑識の関する知識はほとんどないに等しい。
表面的な事ばかりが云々されて、人権が簡単に蹂躙されているのが、現在の我が国の有様であろう。
裁判官にしても、その他の司法関係者にしても、どれ程法医学に精通しているだろうか。
恐らく、皆無と言ってよかろう。
なまじな知識で判断されると到底真理にたどり着けない。
自白偏重の我が国の犯罪捜査は遠く奈良朝時代から延々と続く我が国の専売特許ではあるが、当時は確たる証拠もなく単なる噂、讒訴、讒言によって、自白させようとした。
ある一つの事件に於いて、謀反などと言う罪を着せられて、拷問死させられた者は四百数十名にも上ったという事件さえある。
江戸時代などは自白を得ることが、犯罪捜査の最大の目的だった。
そのためにはある種の拷問には為政者の許可が必要とは言っても、如何なる拷問も為された。
現代では古い時代の様に拷問死をさせる様なことはなくなったが、、その拷問とて、新憲法になって、様々な刑事関係の法律が改正されて以後の事である。
とは言っても自白偏重は依然として罷り通っている。
肉体的な拷問はなくなったとはいえ、精神的なダメージによる拷問は依然としてあると思ってもいいだろう。
長時間に及ぶ拘束は人間の精神にどれ程ダメージを与えるだろう。
いかに科学捜査が発達しても、我が国に於ける自白偏重はなくならないであろう。
自白、実に面白い言葉であり現象である。
犯罪の裁判に於いて検察と被告は敵対者。
その検察の取り調べを担うのが警察の捜査機関。
如何に捜査とは言え精神的にか、肉体的にか、強度の圧迫を加えない限り、己の首を絞める敵対者に塩を送るなどは通常考えられない。
今まで何千何万の数限りない犯罪の裁判に於いて自白調書が出されたことであろうか。
この自白、本当に己の行いを後悔して、己のやったことを陳述したのだろうか。
とてもそうは思われない。
本当に容疑者が申し述べたことをそのまま調書にしたものだろうか。
だとすれば、後悔から出た自白以外は殆どが肉体的にか、精神的にか、強度な圧迫が加わった結果であろうと思う。
それ以外に、自分の首を絞めるための塩を敵に送ることなど、人間にはとても考えられない。
ただ発達した科学捜査に依り、己が犯した犯罪の一部始終をを解き明かされて、観念して認める事はあるだろう。
だが、それは自白とは言わない。




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あの真っ赤に咲いて林間を彩り、道ばたの空き地に咲いて目を楽しませてくれた、
彼岸花が終わったと思ったら、もう秋バラが咲くころになっている。
自然の移り変わりの速さに、思わず己の年を重ねてみる。
もう幾ばくも無いこの世の生を楽しませてくれる花々は、
無味乾燥なこの世をいくらかでも明るく彩ってくれる。


 


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