徒然の書

思い付くままを徒然に

太平記の世界 その四

太平記は序文から天皇の帝徳を問題にしている。
帝は君主としての徳を失い、下々は臣下の礼を失っていた。
太平記天皇と武臣の二極を塾にして構成されている以上、天皇が武臣を滅ぼして、天皇の親政を目論んだ後醍醐は天皇の徳を有するものとは言えない。
 
現に、後醍醐の重臣であった北畠親房でさえも、後醍醐の勅裁政治が官位や家格をを無視した政で、北畠がイメージした政とは凡そ違っていた。
後醍醐が行った人事が慣習とは全く違ったものであったことに、北畠は無念と言うべし、と批判している。
その政の独善性は世に受け入れられるものではなかった。
神皇正統記が新政について批判した個所に、累家もほとほと、その名ばかりになりぬる者あり、と言云っている部分がある。
後醍醐の新たなる勅裁政治は、家代々の既得権を破壊することで成り立つのである。
朝廷を構成する貴族と呼ばれる輩の受け入れがたい事柄であったろう。
親房にしてみれば、己の正統記とは全く矛盾する事柄であったからとてもゆるせるものではなかった。
親房の目指した政とは伝統的か家格、家職に立脚した公家一統の政治であったろう。
南朝方の唯一拠り所とする、神皇正統記にしても、後醍醐の不徳に対する不満は大きい。
時代が下がるに従って、その争いは激化し、武士が力を付ける頃には神の子孫と言われ、貴いとされる天皇が、人間と言う生き物そのものの様相を現して、争いを始めることになる。
 
 
世の多くの人は,後醍醐天皇は孤影悄然とした存在であるように思っているかもしれない。
とは言っても少年のころ読んだ太平記の後醍醐は好きな人物ではなかった。
信義を重んじる人間であったら、敵である足利に大塔の宮を引き渡したり、義貞を北陸に追ったりはしなかった。
世に言われるような優れた人間であったら、阿野蓮子等と言う女に惑わされ、政に影響を及ぼす様な事も無かったろう。
只々権力を己の思うままに振り回したい薄弱な人物であってみれば、ただの権力亡者であったに過ぎないと云えよう。
身内同士が皇位を争って民を苦しめる疎ましさをつくづくと語ったという、僧形となった北朝の後光厳院の言葉を能々噛みしめると好い。
日本の政の成り立ちは、大和政権が出来た当時から、諸豪族によって共立された神祇の主宰者としての大王であって、政にはかかわらない存在であった。
後になって天皇と称するようになっても、天皇を神祇を司る者として頂点に据え、公卿あるいは武家にによる権力者によって政を行う枠組みとして成り立ってきた。
それ故に天皇一種姓を認め、易姓革命のごとき朝廷の交代を行わない枠組みの中で政が行われてきた。
その枠組みを破壊して天皇による親政を行おうとしたのが後醍醐であった。
引き継がれてきた枠組みを逸脱するものとすれば、当然易姓革命が行われても何ら問題とされることはない。
とすれば権力闘争の末、後醍醐に代わって足利朝廷が誕生したとしても、何ら問題はない。
だが尊氏が、京都で後醍醐と争って、破れ九州へ落ちて行ったのも、この枠組みを尊重し、賊軍となることを回避する為であったと言われている。
ここで尊氏が後醍醐を滅ぼしていれば、足利朝廷の出現さえ実現した可能性さえある。
平家物語での保元の乱以来続いた源平交代政権の枠組みも当然消滅することになる。
だが、尊氏はその方法は執らなかった。
易姓革命を回避し、光源上皇の宣旨を得て、朝廷対朝廷の争いとして、事態の収拾に当たった。
尊氏は古代から続いた枠組みを守ろうとしたのに対して、後醍醐がその枠組みを破って天皇親政を企てた。
そして、大覚寺持明院の交代で継ぐ皇位を無視して己の子に譲ろうとした。
従来からの枠組みを破壊しようとしたのは後醍醐であると言っていい。
源平に死が交替で覇権を握る様に、二つの皇統が交互に天皇を立てていたのがこの時代で、後醍醐が死んだ後は持明院即ち北朝が次ぐことを考えると、公正でいう様な南朝政党論は当たらない。
南北皇位の正閏云々ではない。
如何に民を思い優れた政を行える器量があるかが問題なのであって、北も南も皇統の血筋は備えていれば何れが正当であるなどの議論は、それを問題にした輩のマスタベーションに過ぎないことを思い知るべきであろう。
 
源氏平家の武臣が交替で覇権を担うという認識は平安末期の保元、平治の乱に始まり治承永寿の乱にかけて形成されたもので、それは平家物語からであった。
平家物語が源平交代史として構想されてはいるが、交替で覇権を握ったとは言っても、それ自体は権力の主体ではないということである。
先にも書いたが古くから、蘇我や藤原や平家が為したように、下から大王あるいは天皇を操る方法が我が国での権力構造なのである。
それ故に、この枠組みがあるが故に、不徳の帝ではあっても、中国の様に朝廷の交代と言う、易姓革命と言う方にはならなかった。
六百年代の朝廷は権力を握っていたのは蘇我氏で、馬子の世で神祇を主宰する大王は蘇我氏の傀儡大王であり、馬子に従わない大王自体、あるいは皇子たちが馬子によって葬られてきた。
当時の蘇我馬子の権力は優に大王を凌ぎ、権力の頂点に上り詰める事も可能であったが、蘇我氏は大臣として大王を傀儡として操る枠組みを守ってきた。
同じ様に、その後の古い時代に藤原がやった様に己にとって扱いやすい帝を帝位に就けて、己の思うままの権力構造を作り出す、それが我が国の基本構造であり、武家が天下を制したとしても、全く同じであった。
ただ、義満の時代と、信長の時代で、いずれも未遂に終わったが、易姓革命に似た足利朝廷あるいは織田朝廷がへの道をを歩みかけたが、いずれも義満と信長の死で挫折している。
 
太平記の二部までは平家物語の源平交代史によって構想されている。
とは言っても平家物語に依拠している訳ではない。
その序文を見ると平家物語祇園精舎は悪臣として滅んで行った、先例を列挙しているのに対して、太平記の序は悪臣と共に悪玉も滅んで行った先例を挙げている。
その徳、欠ける時、位にあると云えども持たず、と言われて悪玉として夏の桀王、殷の紂王の先例が挙げられている。
序文から天皇の名分が問題とされて、太平記の源平交代史は新しい名分の枠組みを用意することになる。
太平記の冒頭部分で武神高時は臣の礼を失うと、その武神高時を滅ぼした後醍醐についていも、己の守りとする武臣を滅ぼすことは、君の徳があるとはいいがたいといって、武臣を滅ぼして天皇親政を目論んだ後醍醐は天の徳を持つ名君ではないとしている。
 
その武家支配が始まる前でも、民を苦しめ暴政を行った朝廷は在ったろうが、我が国の民は中国で行った様な易姓革命と言う方法は執らなかった。
武家の世になって、朝廷を無視した政を為すものが出ても、朝敵とか国賊などと言われるのを恐れて、頂点に朝廷を置いた政治形態を執った、我が国の支配者の不思議を思うと実に面白げな民族だという気がする。
尊氏が、京で敗れて西下するときその理由を国賊、逆賊の汚名を着せられるのを嫌ったせいだと言われている。
途中、光厳上皇から院宣を得て、朝廷と朝廷の争いに振り替えて上京している。
これも中国の易姓革命を嫌った権力の在り方によると言える。
この武家の源平の交互交替昉を取ながら、武家は江戸時代まで、天皇を立てた権力行使の方法を続けていく。
 
天皇が世を支配する様になった古い時代から、我が国の政を為すものは天皇を頂点にしてそれを操る枠組みを作り出した。
それ故、中国の様に王朝の交代と言うものはわが国には存在しなかった。
それは武家が支配する様になってもその枠組みの中での支配であった。
恐らく、天武が天皇と称するようになったときも、蘇我が大臣として権力を振るった時代、後の藤原の支配が天皇を操ることで勢力を広めていった形態を踏襲しているのだろう。
 
平家物語の二代の后に面白いことを言っている。
そもそも源氏と平家は、ともに朝廷に仕えて、王化に従わず、おのずから朝権を軽んずるものには、互いに誡めを加え如かば、世の乱れも無かりしに・・・・と言っている様に覇権を握っても朝廷に仕える身・・・・
ところがこの二代の后の稿では、保元の乱では為義が義朝に切られ、平治の乱では義朝が誅せられて源氏の威勢は衰え、今では平家の一類のみが繁栄していると言っている。
朝廷内では主上上皇親子の間に疎遠が生じて、互いの側近を警戒し合っていた。
これも世澆季に及んで、人、梟悪を先とする故なり。
世も末となり、悪だまが道理に先立つようになった結果である。
 
 
平家が政を支配するようになった時代でも頂点には天皇の存在があった。
平家が倒れ源氏の時代鎌倉政権でも然り、源氏から北条の支配する平家の世でも然り、天皇が頂点に存する枠組みは変わることはなかった。
 
平家が支配した時代を描いた平湖物語と、足利が支配した室町時代を描いた太平記とは何故かに通ったところがある。
 
その様な暴君支配に慣らされた我が国の民は時の政治屋や官僚に何を為されても、未来永劫ただ黙々と従うしか能のない怠惰な民族に成り下がってしまった。
 
黄帝は徳によって全土を治めた賢王として描かれている。
黄王に続く尭、舜も、夏王朝の開祖たる禹も、更には殷王朝の湯王も、すべて徳によって人々を教化し、全土に平和を招来して理想の為政者である。
未だ過って、そのような為政者即ち我が国の朝廷で、そのように政を行ったのは在ったろうか。
只々、民を搾取し、栄華を貪るだけの政を行ったと云えないだろうか。
ただ己の権力欲を満たすためにだけ、争いを引き起こし、民を苦しめ可惜人物を死に追いやっただけの輩、と云えないっだろうか。
 
この中国の王朝交代と我が国の天皇に背いた者たちについて、平家物語祇園精舎、と太平記の書に面白いことが書かれている。
 
遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山、是等は皆舊主先皇の政にもしたがはず、樂しみをきはめ、諌をもおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の愁る所をしらざらしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。
近く本朝をうかゞふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、おごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは、六波羅の入道前の太政大臣、平の朝臣淸盛公と申し人のありさま、傳承るこそ心も詞も及ばれね。
 
この時代の人々に対する後世の評価は時代時代に依り様々ではあるが、それはその人その人の考えが反映しているだけの事で、それはそれでいい。
だがこの善悪を国会の場で取り上げる馬鹿が我が国に居た。
尊氏に対する高評価が気に入らないと大臣を辞職させる馬鹿な政治屋が我が国の政治屋なのである。
また、北朝の系統をひく明治天皇に、皇統は南朝が正しいと迫って、認めさせる輩もいたという。
それを認めた明治天皇ってどうなってるのって言いたくなるような出来事である。
 
そこで出てくるのが北朝系である明治天皇南朝を正当と認めるなどは論外。己を天皇ではないと認めることになる。
そう考えると当然隠された明治天皇の出自が問題とされても当然お云えよう。
そして、天皇自身おのれの出自を知っていたということになる。
 
明治の頃南北朝の正閏論がかしましい時代であったらしく、国会で無駄な論議をしたころが詳細に書かれたものがある。
それを乗せるべく考えたが、文字数オーバーのため削除した。
興味のある方は、南北朝正閏論で検索してコトバンク日本大百科全書の解説を参照されるといい。
政治屋と言うのは全く無駄な事ばかりを論議の対象に選んでいるらしい。
 
 
参照文献            太平記 よみ の可能性   兵頭裕己著  講談社学術文庫
日本の歴史        文芸春秋                      文春文庫
   





灯ともし頃



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ライトアップされた紅葉
紅葉はライトアップされても、色が濁って太陽光の美しさに比べ得べくもない。


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