徒然の書

思い付くままを徒然に

太平記の世界 その参

 
太平記は全四十巻になるというが、書き継がれながら義満の頃に、その政治体制の下で室町幕府の創成以来のものとしてできあがったものであろう。
恐らく室町幕府の正史としての扱われた。
この太平記は至る所で平家物語を踏まえているところが見える。
太平記の序も平家物語祇園精舎を踏まえたものとみていい。
ただ平家物語祇園精舎は仏教的な鎮魂であり、因果論であるに対して太平記儒教的な名分によって悪王、悪心の必滅を説いていると言える。
ここでいう名分は立場や身分に応じて守らなければならない道義上の分限と言う意味なのだろう。太平記の世界を敷衍していくと、日本の歴史のあらゆるところに関連を見ることが出来る。
神の子孫だと言い出した天武の皇統神話以来、それを頂点に据えて、実権を握って操る政の体制を築き上げたのは、藤原不比等であった。
いやいや、不比等よりずっと以前の、蘇我馬子の時代には大王はもう存分に操られ、馬子の傀儡となっていた。
大王位に付くには馬子の承認が必要であったというより馬子が大王を決めていたといった方がいい。
物部守屋との戦いの後、馬子は泊瀬部の皇子を皇位に据え、倉梯宮に宮を作り押し込めて己は飛鳥で政を行っていた。
あげくは泊瀬部大王は馬子によって弑せられてしまう。
元々大王位は、大和政権が誕生した時、多くの豪族の首長たちが集まって、合議制の政をしていた頃、祭祀を主宰するためのに祭り上げられて大王と呼ばれる様になったのが始まりである。
それ故当時の大王と呼ばれるものは神祇の最高主催者であったと言える。
要は信長の言葉を借りれば、天皇とは全国の神主の親玉と言うことになる。
それ故政権の政は合議制とは言え、その支配権を持つ強力豪族に握られていた。
それが物部であり蘇我であったと言える。
神祇を主宰する大王は記紀にば名前さえも記されてはいない。
記紀にかあkれた、あの大仰な名前は後になって作られたもので、生と言うものはなかったようである。
それ以来、武家が権力を握る世になってもその体制は変わらなかった。
中國における朝廷の交代、易姓革命はわが国の政治体制では起こらない。
朝廷はあくまで一姓ではあるが政の実権は公卿、あるいは武家が握っていた。
 
鎌倉幕府は頼朝時代はいざ知らず、北条氏が執権として政の実権を握って以来、
有為な人物が排出し、武家の政権は拡大と教化の一途をたどった。それは南北朝の末期には頂点に達したと言っていい。
武家が公家を圧倒すると公家の頂点である天皇を排除する方向へ進んで当然であった。
だが我が国では中国で起っていた易姓革命擬きは起きなかった。
しかし我が国の史上、蘇我氏から始まって藤原、平家、更には北条と義満以前にも強力な権力者が輩出していたが、彼らはそれでも天皇を廃しようとは考えなかったようである。
中には蘇我馬子あるいは藤原仲麻呂の様に天皇になろうとしたものはいた様だが、他姓の朝廷と言うものとは違った様である。
それまでの権力者は大王を上にたてながら、陰で遠隔操作をする、傀儡政権を目指した。
天照の嫡系のみ皇統を継ぐという血統神話が天武によってもたらされて以来、わが国の権力者たちはその支配体制の枠組みに追随した。
その天武がもたらした血統神話は現代にまで続いているが、これまでに、二度易姓革命擬きが起きようとしたことがある。
それは義満の時代と信長の時代で、いずれも義満と信長の死によってその計画は潰え去ってしまっている。
 
さてその神の子孫と言われるものが作ったという、我が国の歴史を書き綴ったのものを紐解いてみると、、その頂点に立ち周りを取り巻く貴族と呼ばれる輩が行った政は、現代におけるまで民のための善政が行われたと云う記録は一欠けらも見当たらない。
古い歴史を持つ国々の歴史を見ると世のため、民のために限りない善政を行った偉大な王と言うものが時代時代に必ず存在した。
それに引き替え、二千数百年に及ぶと言われる歴史の中で、その様な善政を引いたという天皇は、誰ひとりとして見当たらない。
それどころか、次々に子を孕ませ、その係累は底知れない程に広がって行く。
その対策が臣籍降下と言う方法であるが、これらの降下した人々にも、天皇の血筋すなわち神の子孫の血筋が伝わっているはずである。
血の欠片は数限りなく広がって行き、我が国には神の子孫が蔓延していることになる。
その臣籍効果によって、平家が生まれ源氏が世に現れる様になる。
それ故平家が、源氏が天下を治めようと、天皇を頂点とする政の枠組みは崩れる事はなく、精々傀儡にするにとどまった。
如何に神の子と自称しても所詮は、欲の皮の突っ張った人間と言う生き物。
争いが起きない筈はない。
その権力の争いを、藤原などと言う渡来人の家系一族が利用しない筈はない。
おのれの女を朝廷に差出、外戚の関係を作り出していく。
藤原の意のままになる傀儡天皇を出すこと、さらに藤原の血を引いた天皇を出すことが、藤原不比等の夢でもあった。
その不比等の夢は早くも聖武天皇によって実現している。
 
天皇の承継についても確たる順位はあったわけではない。
皇太子と定められた者が存在しても、策を巡らし、謀反の罪を着せて廃嫡、謀反人として処分してしまう。
それが平安末期、武家が登場するまで続いた来た。
後の世になって皇位の正閏論を論ずること自体が問題であり、天皇は確たる順位を経て、系統によって引き継がれてきたわけではない。
戦いが有ったり、朝廷の権力者の思惑であったり、中継ぎのための女帝であったり、継承についての確たるものがあったわけではない。
情をからめて、有るべき姿でない皇位の継承を行うなど、やんごとなき人の上に立つ者のすべからさることを行って、波風を立てている。
この太平記で南北に別れて争う行為も、もとはと言えば兄弟の一人に特別な情を与える親馬鹿の結果であった。
あげくの果てはその選択を幕府に任せる、何とも情けない天皇であった。
この後嵯峨の行いに依り皇統が二つに分裂していくことになる。
同じ様な事は古く桓武の頃にも起って居る。
その原因は様々であるが、要は権力争いに尽きる。
桓武の後を襲った嵯峨のときも、平城襄公との間で争いをお越し、皇統に乱れを作っている。
平城上皇が寵妃藤原薬子らとともに,多数の官人をひきいて平城旧京に移り,二所朝廷の観を呈したので,坂上田村麻呂以下の兵を発して上皇方を征圧した。
薬子の変とも呼ばれる行為争いである。
後に語醍醐が行った、二所朝廷が既にこの時に行われている
この皇統の権力争いはいずれの系統が皇位を継承するかについての対立が生じ、これに皇室領荘園をめぐる対立も加わって天皇家は二つに分裂した。
人間権力と欲が絡めば身分の貴賤など全く関係はない。
 
後の世になって、北朝南朝だと外野が大騒ぎする様な、皇位と言うものが整然と引き継がれてきたわけではない。
 
これまでの歴史を振り返ってみても皇位などと言うものは、時の権力情勢によって、何処へころがり込むか全くわからないのである。
時の権力者の都合によって皇統の血の欠片が僅かでもあれば、皇位の継続性云々を問題にすることはなかった。
平安の末期鎌倉時代には天皇位は二派に別れ、交互に天皇位を継承していた事実を考えると、天皇位と言う権力はそれ程おいしい存在であったのであろう。
十三世紀の半ば、後嵯峨が退位すると、皇子の久仁と恒仁の確執から鎌倉末期になると持明院統大覚寺統の二つの皇統が、交互に皇位を継いでいた。
皇統分裂の因を作ったのが後嵯峨であることは既に記した。
おのれの家系の跡継ぎを他人に委ねるとは、何とも無責任な法皇ではあった。
 
我が国の取った支配体制が天皇の皇統が幾つに分裂しようと、皇統そのものが他姓に奪われることはない。
その安心感が優れた天皇の輩出の妨げになっていたのだろう。
と言う依り、時の権力者の遠隔操作の傀儡の対象に過ぎなかったためと言った方がいいのかも知れない。
歴史を紐解いてみても、その後優れた天皇と言われる人物は精々一人かせいぜい二人有ったかどうか。
革命思想を是認する太平記ではあっても、形式的には古来からの政治体制を天皇と武臣の関係を是認した。
だが天皇の名分に言及したことは重大な意味を有するが、我が国の人種の土壌では効果はなかったようである。
太平記に数多く引用されている中國の史記などを見ても、優れた為政者は徳を以て、全土を治めたと言われている。
徳によって人々を教化し、全土に平和をもたらした。
徳による政こそ理想の政治であり、優れた支配者は徳の看板を掲げてきた。
その徳による政治の背後には武力による裏付けが必要であった。
我が国の天皇の様にただ遊び暮らしている様では、徳による政治どころか、政を守るための武力など、及びもつかなかったろう。
 
我が国の様に一種姓で、世襲の上に胡坐をかいてきた者には、及びもつかない事であった。
徳と言うものが、評価に適せず、絶対的な基準がない以上、徳に関する名分をどの様に解釈することも可能であった。
最高権威としての天皇と政権の行使者としての将軍との間に上下関係を認める名分論が基本となっていたといってよかろう。
他方,国学尊王論などは記紀の神話を、事実として前提できるはずのないものを前提し,皇祖神より血統的連続性をもつ天皇に絶対性を認める論理を基礎としていたところに無理があった。
とは言っても、皇祖神等と言うものは記紀などの言う様な古くからあったわけではない。
ただ伊勢神宮は日の神、天の下を照らす大神として、神祇を司る大王家に大切にされてきた。
ヤマト王権で、神祇を司る大王としては当然の事ではあったが、その密度を濃くしていったのは、七世紀後半の天武の頃で、更に皇祖神となったのは八世紀のなってからである。
古く、大王家は天に神を感じ、三輪山に象徴される山や川、山川草木に自然の神を見てきた。
政にからは完全に除外されてた。
それが天皇自体の権力を無効にし、ただの遠隔操作で操られる存在にしかなれなかった由縁なのである。
それを打ち破り、実査の権力を手中にし親政を行おうとしたのが後醍醐であったが、余りにも性急すぎたため、世の実情に合わなかったと言えるのだろう。
 
古来から、我が国では実際に権力を握ったものが政を行ってきた、その時、天皇は権力者の傀儡であり、直接政には携わってはいなかった。
それ故、中国で行われた様な易姓革命などと言うものが行われず、天皇の一種姓を認めてきたのである。
 
ところが、後醍醐が皇位に付いたとき約束事を破って、己の子に皇位を継がせようとしたのが、後醍醐であった。
この男、何処でも紛争を引き起こすトラブルメーカーと言って良いい。
太平記の二部辺りまでは恐らくこの後醍醐が主役の様である。
南北朝云々する以前、既に分裂していた天皇家が、不徳の天皇後醍醐が出るに及んで、その二派の争いを激化させたと言える。
後世の者どもは余程後醍醐が優れた支配者と思っている様だが、後醍醐の行った政はことごとく世の実情に合わぬ、受け入れがたい政策であったことは明白であった。
 
 
参照文献             
 太平記 よみ の可能性   兵頭裕己著  講談社学術文庫
日本の歴史           文芸春秋                         文春文庫



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