ぼたん
美しいものは美しいのではあるが、それを素直に認めればいいのではあるが、人間という生き物、なかなか素直にはものを見れないらしい。
そう、中国の随分と古い時代の生き物、老子とも老聃とも呼ばれる輩に言わせると、人々が美といっているものは実は醜に過ぎない、また善だと思っているものは悪に過ぎない、これらのものやあらゆるものは相対的な区別に過ぎないという。
そんな相対的のものは現れかたが違っているだけで、本質は何ら違いは無く同じものだという。
だから美と言っても醜といっても絶対的なものではあり得ないと言う。
美が何時醜に転化するか判らない。
功成り名を遂げたら、早々に身を引くのがいいというのもこの同じ輩、老聃ではある。
何事であっても本質的なものは見えにくく、人間という生き物は外に現れているものに囚われるのだという。
とは言っても美しく現れた牡丹の花を見て、なんと醜な花かなどという輩はいない。
だから美であっても醜であってもそのことにとらわれることはないのであろう。
とは言っても美しく見えるものは美しく、醜なものは醜である、唯それの囚われることがなければそれでいい。
禅などでも一つのことに囚われず、次から次へと流していくがいいという。
この様におかしなものの考え方をするものが、この世に現れた人間という生き物に崇められる傾向がある。
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