徒然の書

思い付くままを徒然に

太平記の世界 足利尊氏悪人と呼ばれて その壱


太平記自体を語ろうというのではない。
太平記に纏わって、現代においても様々な問題が起って居る。
それを思いつくままに書き連ねようと思った次第で、太平記とは全く関係ないように思ってもどこかで繋がっている、そんなことを断片的に思いつくままに書いてみたものである。
足利尊氏が開いた足利幕府、即ち室町幕府の別称であるが、尊氏が後醍醐を吉野に追って開いた幕府である。
この尊氏と争った後醍醐が吉野山に逃げ込んで、南朝を開いて南北朝時代が始まる。
足利尊氏ほど歴史的評価の激変した人物も珍しい。
この後醍醐、鎌倉幕府に戦いを挑むが破れて隠岐に流されたところから始まるが、この後醍醐の夢は、武家から権力を取り戻し、律令華やかなりし時代に戻そうとする。
天皇とそれを取り巻く公卿や公家が、何故か律令時代への執着を見せるのは、過去の律令時代に民を搾取して、栄耀栄華を尽くした生き様が忘れられないのである。
尊氏の兵力に依り北條幕府を倒したはいいが、その論功行賞に於いて、何の功もない公卿、公家たちへの褒賞が厚く、武家に対する褒賞を薄く報いたために不満が噴出した。
これを見ても解るように戦における論功行賞は最重要な手続きであるにも拘らず、不公平が出ては棟梁たる資格はない。
元々が天皇などと言うものは飾りのものであり、政をするだけの能力は持っていない。
その様な飾り物の無能者が権力を手にしても、有効に使うことはとても不可能であった。
にも拘らず、日本の歴史の中の一時代を世の人々を無視し、混乱の渦に巻き込んだ、一方の元凶は己の安易な思いつきを政に反映し、思いのままの権力を振るおうとした、権力志向の輩が出たのは鎌倉幕府の末期であった。
これが太平記の一方の柱となるのであろう。
その時代、神が天下って国を作り、その子孫が収めた国、神国であると言いながら、只々庶民の労苦を貪り食った天皇と言う一族も権力の魔力に取りつかれ、大覚寺持明院両統に分裂して権力を争っていた。
キリスト教の神も、イースラムの神も子孫と言うものを創らなかった。
キリスト教の神の子孫はあったが、早々と天に召してしまった。
現実世界に現れて人間を苦しめる事はなかった。
それはギリシャ神話の神々にしても同じであった。
神は海の真ん中に小さな島々を作り、神の国であるとして、その子孫を送り込み、その小さな島々の人々を支配しようとした。
神の子孫と言われるものは、己が贅を尽くし、安楽に生活が出来る様に、その小さな島々に住む人々を搾取し、苦しめる事を平然と行った。
その海の中の小さな島々が、中国や朝鮮半島の国々から倭と呼ばれる国であった。
これらの事は何もわが国に民が住み始めて、人々を支配する決まり事ではなかった。
天から天下った神の子孫が支配するなどと言う、この血統神話は七世紀に天武が思い付いた世迷い言がそのまま歴史として延々とこの太平記の世まで続いていたというだけの事に過ぎない。
この血統神話は中国の歴史に現れた、力の強いものが、徳を以て政を行い、国を治めるものと違った。
七世紀に登場した天武などと言う輩は大和政権が作られた時、多くの豪族の中の一つの子孫過ぎなかった。
祭祀を主宰するための名目上の大王に祭り上げられたにすぎなかった。
その子孫に過ぎない天武にしてみれば、己の力だけでは国を治めることに不安を感じたのであろう。
神などと言う鵺みたいなものを持ち出してその子孫であるなどと民を惑わし、天皇と称し始めたのが我が国の皇統の始めと言っていい。
記紀に書かれた神話も天皇と言う系譜も七世紀に創りだされた。
それ以後、天照の嫡系の血の欠片を持つ者が皇統を支配し国を治めるという、血統神話として定着していった。
力の強いものが支配するという考えは、我が国の史上,蘇我氏藤原氏、平家であり、北條氏など多くの権力者が登場したが、天皇家を廃して己が頂点に立つことはしなかった不思議な民族である。
そのいずれもが、天皇を頂点に於いて、それを操る方法を選んだ。
それが後の世に、日本と言う国の民にこの上ない悲劇を味わわせることになるとは思い至らなかった。
尤も、天皇を廃して、力の強いものが頂点に立った政であっても、そのものの器量如何で同じことが起ったであろうことは間違いないのだが。
それ以来我が国では、権力を得て天皇を操る政が、藤原も、平氏も、足利も、戦国の世の武将たちも、延々と近代まで続くことになろうとは・・・・継続する事、即ち歴史と言うものの恐ろしさはこんなところにあるのであろう。
 
その国の朝廷に苦しめられていた民の中から、武士と呼ばれる者たちが立ち上がり、武士の支配する国を造ろうとしたのが、平安朝と呼ばれる時代の終盤であった。
庶民を貪るための口実として作り出した神の子孫、その神の子孫で貴いと言う者たちだけの歴史が、日本と言う国の歴史として作られてきた。
それ故に、日本書紀古事記といった類のものは日本国の歴史とは言えない、ただの天皇と称する氏族、それを操る権力を握った氏族、それを取り巻く貴族と称する輩の歴史に過ぎない。
民が登場する歴史は搾取されるものとして、歴史の陰影の中にしかない。
縄文文化弥生文化以後の庶民が作る歴史はなかった。
無かったというよりも、伝承として残っていたものなどは、天武が己を神の子孫とするために、その反証となる様なもの一切を破却してしまった、それと共に闇の中に葬り去られたといった方は正しいのかも知れない。
庶民が歴史の表に登場するのは、租庸調によって搾取され、食うや食わずで、屍をさらす事だけであった。
只々、寄生の対象としてのみ存在したと言っていい。
庶民が歴史に登場し、生き生きとした姿が描かれるのは武士と呼ばれる者たちが朝廷の乱脈を抑え、武士の力で朝廷を操るようになった鎌倉の時代まで待たなければならない。
鎌倉の時代とは言っても、源頼朝辺りでは国を治め文化を育むなどと言う様な政はとてもできなかった。
鎌倉時代は北条の治世になって漸く花開き、華やかな文化をつくりだしたと言っていい。
アメリカの歴史の様に、庶民が切り開いた国、庶民が開拓していった、庶民主導の歴史とは程遠い、朝廷の贅をつくし、遊びほうける絵巻の歴史であって、日本という国の歴史ではなかった。
天平文化などと言われてはいるが、これとて庶民が独自に創り出した文化ではない。
平安と言う時代の終わりころになって漸く武家が登場して、歴史と言うものが様変わりする様になった。
その武家の支配する時代とて、中国でいわれる様な易姓革命などと言うものが起きる気配は全くと言っていい程なかった。
武家政権とは言っても、政治の支配の実質は握ったものの、その頂点には依然として天皇と言うものが存在した。
日本民族の権力を握ったものの共通した思考過程は、天皇と言う名の飾り物を操るという事であるのは再三述べてきた。
以後の室町、戦国、徳川のどの時代の武家政権であっても、それは変わりなかった。
だが、一度だけその構図を破壊し己一族が頂点に立とうと試みたものがあった。
それを試みたのが足利三代の義満であると言われている。
これが、日本民族の不思議であり、理解の出来ないところである。
日本と同じような王室を抱えた英国ですら、ピュリタン革命を経験して、共和制の政治支配を経験している。
これは何故なのだろうかと考えてみても、神の子孫と言うお題目が、意識するとしないにかかわらず、日本民族の頭の中に埋め込まれ、刷り込まれた歴史と言うものの重み、それが日本民族を支配していた。
その歴史が余りにも長かった、只々永続した歴史のなせる技であったのだろう。
これが、天皇だ、などと言い出した、天武から数代だけであったなら、天皇制も歴史の中の一場面でしかなく、日本の歴史も全く変わったものになっていたであろう。
歴史の世界では、たら、れば、などはただの世迷い言でしかないのだが・・・。
それは、中国の秦が全国支配をして以来、漢以後の朝廷を見ると、易姓革命などと言うものも頷ける様な王朝の交代が行われている。
天武自身の支配能力は、神の子孫などと言う鵺みたいな不可解のものを持ち出さなければ通用しない程度の支配力しか持たなかった。
日本の古代は中国の黄帝以下の尭、舜、あるいは夏王朝の禹、さらには殷王朝の湯王の様な徳を以て人々を教化し、全土に平和をもたらした、為政者と言うのはついに出なかった。
朝鮮半島の渡来人と言われる藤原鎌足以下の操り人形の様に振り回されるか、操る者の力が弱まった時、天皇の横暴が顔をだし、民の困惑をしり目に大仏を作り、あるいは遷都を繰り返し、己の贅だけを考える者たちが支配した。
 
閑話休題、平家が滅亡し、平安と言う時代が幕を閉じて、頼朝の一族が途絶えて、北条の世になって以来、武家が支配権を握って、鎌倉時代と世に言われる武家政治が続いてもう随分になる。
清和から出た河内源氏嫡流を辿ってみると初代頼信と八幡太郎と呼ばれた義家以外、武将にあるまじき、公家並みの姑息さが支配する人間では世を支配するには荷が重すぎた。
頼義など至っては、只々出世を願い公家のような生き方をする武家であってみれば、いざ戦となっても、公家特有の姑息さが顔をだし、武家本来の持ち味が全くなかったと言っていい。
姑息な源氏の嫡流と言われるものが、世を長く支配できるはずはなかった。
その源氏政権の執権であった北條氏に変わって、漸く鎌倉時代が花開いたと言っていい。
北条の歴代当主に優れた人物が次々に排出するのだが、代を重ねた後、蒙古の来襲によって、武家支配の必然性に依って、その影を薄くしていった。
その鎌倉時代の末期、武家の権力闘争とは別個に、神の子孫で貴いという連中も、権力と言う魅力に勝てないのであろう、その天皇家が権力をめぐって、分裂していった。
世に、大覚寺統持明院統と呼ばれているが、その大覚寺統後宇多天皇の第2子として生まれた尊治がその後、後醍醐と呼ばれる様になって、世を騒乱の渦に巻き込んでいった。
この後醍醐と言う男、神の子孫などとおだてられて、操られていることに漸く気づいた。
その操る者から、真の権力を取り戻し、栄耀栄華を謳歌したあの平安の律令時代に戻そうと試みたのが太平記の始まりと言っていい。
この男、己で生前に諡号を選んだような変人であったが、朱子学真言の教義にも通じて、詩などにも造詣が深かったという。
この様に己が人に優れたと思い込んでいるものは、往々にして他の意見を無視した独栽に走り、世の安定を害することがあるのは、それまでの歴史が示している。また偏見も人一倍強かったようである。
権力欲があまりにも強すぎた故か、天皇と言う地位に胡坐をかいていた故か、人間と言う生き物に対する認識が欠落していた。
己に味方し、己を助けて奮戦した者にさえ、その勢力に疑心を抱き排除しようとする、棟梁たる資格も能もない輩、人間的魅力に欠けた輩、その名を後醍醐と言った。
こんな輩のために、助力し、権力復帰に力を貸した武将が足利尊氏であった。
この様な輩に、尽力したがゆえに、結局は裏切られ、後の世に悪人呼ばわりする輩が現れる結果となった。




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