弓削の道鏡 その四最終
現代の様な通信手段が発達していない、時代の使者の返答に疑惑があったとしても、おいそれとは確認できなかったであろう。
宇佐八幡が、神託を簡単に変えるとは思われない。
八幡神が発した、神託を確認のたびに変更していた、では神託の信用が地に落ちてい仕舞う。
藤原に示唆されたか、己自身の考え方であったかわわからないが、清麻呂が付く繰り上げたものを神託として報告した。
天皇の己に対する信頼を裏切った行為はまさに不忠の臣、死を給わっても文句は言えまい。
己が創り出した神託・・・・
天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし
・・・という神託を宇佐八幡が下したとして報告した。
そして正反対の神託を下して国政を大混乱させた結果となった宇佐神宮と神官たちには何のお咎めも無く、女帝の希望通りの神託を持ち帰らなかった清麻呂と姉の法均だけが流罪になったという事実からみて、陰で糸を引いていたのは藤原であることは見透かされていたのであろう。
この藤原と言う一族、一つの頭を潰しても、朝廷に巣食う鼠賊は何処からか湧いて出てくる。
藤原と言う渡来人が滅亡した半島の己が国を日本で再生させるには並みの薄汚さ、陰険な策略を用いるだけでは達成など及びもつかないだろう。
脚色された話として一般庶民にまで浸透してゆき道鏡事件の裏にあった権力闘争の生臭い諸事情は闇に葬られてしまう。
百川自身が病の床に就いていた女帝の傍に居り、病状の一部始終と治療の方法について、全て知り得る立場にあったとすれば、一服盛った可能性は十分に考えられる。
配流先では心静かに法均尼の菩提を弔っていたであろう。
二年後に天皇の後を追うように逝った。
寵臣は主の死と共に、破滅の道を歩むことになるのはこの時代に限らず、江戸の時代でも寵臣と言われて者たちは没落していく。
寵臣が排除されるのは主の死後の事であり、これは以後の歴史にも数多く表れている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー