情けは人のためならず・・・・
情けは人の為ならず、この言葉をどのように解するはは大変難しい。
情けは人の為ならずとは、人に情けをかけるのは、情けをかけた人のためになるばかりでなく、やがてはめぐりめぐって自分に返ってくる。
人には親切にせよという教えとして用いられるのが普通かもしれない。
そうとばかり言えないのが人の世のさだめなのである。
けれども、
人の為ならず、は人の為なりの古語で断定であり、人のためであるという意味、の全体を「ず」で否定していると考えると人のためではない、という意味になる。
情けをかけることは、その人のためにならない、の意味で用いるのは、本来は誤用であるのだが、本来の意味の言わんとしている事と同じくらいに、解釈を誤っている人が意外に多い。
と言うよりはおそらく人々の半数は誤った解釈をしているのかも知れない。
このような誤用が生じるのは、打ち消しの「ず」が何処に掛かっているかの解釈の相違であるが、為になる、にかかっていると解釈すると、「ためにならない」という意味になるからである。
国語の問題を解決するために、書いたのではなくこの教訓としていることを実践したがために、己のいや己を含めた一族すべての命脈を断たれた人々が、中国や、我が国の昔々に起って居る。
情けを掛けられた者はいずれも非情にも本人のみならず、一族もろとも滅ぼして全滅させているのが共通している。
そして、己の国を建て栄耀栄華を独り占めしているのも同じであるが、そのいずれもが、殆ど無能に近い輩で、周りの者に煽られて、情けを仇で返した結果を招いている。
中國のその茫洋とした支配者は天下を永続させたが、我が国のそれは本当に凡庸で能がなかった、ためにその世を継続させることが出来なかったのは只々凡庸で、周りの者の佞臣、奸臣を見抜けなかった阿呆な処は秦の始皇帝以上であった。
我が国の場合はそれに嫉み妬みが加わった、無能に輪を掛けたものであったが単に、あっさりと乗っ取られてしまっている。
楚漢の争覇戦の端緒となった会談である。
重要な戦いの場で、敵将に掛けた情けが仇となって、己だけではなく、項一族すべてが根絶やしにされてしまう。
この垓下で項羽が自刃する時、良く知られた言葉、四面楚歌はこの時に起因する。
楚歌は本来なら自陣から聞こえなければならない、にも拘らず楚歌は敵の陣営から聞こえてきた。
兵のほとんどが寝返ったのだろう・・・・・
虞兮虞兮 奈若何 虞や虞や 汝を奈何せん
項羽は寵姫に対する憐憫の情をこの言葉で表したという。
何年にも亘って追い続け、逃げ続けた劉邦に今は己が囲まれて終焉を迎えようとしている。
要らぬ情けが仇となって身を滅ぼした。
平家物語を滅びの美学という人もいる。
同じ様に余計な情けを掛けたばかりに、己一族を滅ぼしてしまったのが我が国でも見ることが出来る。
この保元、平治の乱のすべての端緒は白河の女色に狂った狂気にある。
白河と言う男、女とみれば、手当たり次第に、昼となく夜と無く閨に引きずり込み犯し、孕めば臣下に払い下げるという悪辣な輩であった。
事の発端は、藤原璋子を白河が己の猶子にするのだが、この璋子も淫乱の相があったのか、十四歳にして間違いを犯し、親の白河から折檻を受けるが、その白河が猶子の璋子に手を出して、次々に子を産ませるのだが、そうしながら、この璋子を己の息子鳥羽の后として嫁がせる。
因みに猶子とは兄弟、臣籍または他人の子を養って自分の子としたもの。
それ以後も、己の息子の嫁となった璋子に次々に子を産ませる破廉恥極まりない天皇であった。
この璋子、白河の子を生み、鳥羽の子を生み、十年で七人も産めば満足であったろうが、白河の死後はひっそりとしていたというから、欲求不満ではあったろう。
一方、鳥羽は藤原得子に手を付けて子を産ませるが、この得子強かな女で、陰険姑息な手段を使って鳥羽を籠絡し、崇徳に譲位させておのれの子を皇位に付ける、これが近衛であるが、近衛は若くして死んでしまう。
崇徳が譲位するとき、欺かれて皇弟に譲位する形にされてしまって、院政を敷くこともできなかった。
この様な陰険な策を弄する輩が国の支配者であれば国が乱れない筈はない。
白河法皇の女狂いがこの複雑な関係を作り出し、権力争いが激化させ、様々な人間を巻き込んで動乱が始まる。
この源氏の義朝は出来のいい武将ではなく、平家に敗れ殺されてしまう。
其の子の頼朝、範頼、義経の三人が殺されるところを、清盛の義母、池の禅尼の差し出口によって命長らえてしまう。
この清盛も白河の落胤で、平の忠盛に下げ渡された女から生まれたと言われている。
その平忠盛の室が藤原宗兼の女で、己の出自を鼻にかけ長男の清盛を差し置いて己の子に平家の跡を継がせようとしていた。
清盛のこの情けが平家を根絶やしにすることになる。
大切な時に女の情に絡んだ差し出口は凡そ碌な事にはならない。
頼朝などと言う他愛もない男が、ただ源氏の嫡流と言うだけで兵が集まるのだから人間と言う生き物の頭の中は全く分からない。
楚にしても、平家にしても、滅びの原因は数多くあるが、一つひとつ辿って行くと、項羽の、清盛の情けに行きつく。
楚の項羽の様に、清盛が掛けた情けが平家一族を滅ぼしてしまう。
情けや、恩は着せるものではなく、着るものだとは言うが、戦国の世であっても、太平の世であっても、それは相手に依りけりである。
歴史に若し、などと言うことはありえないのだが、清盛が義朝の子すべてを弑していたら、歴史は随分と変わっていたであろう。
情けなどと言うものは戦国の世の武将にとっては禁忌である。
後の世の信長は非情だと言うものが多いが、戦いの中の殺戮は当然の事であり、非難される謂れはない。
当時死刑を宣告されても、実際は罪一等を減じられて、遠流にされていた。
故意に同属の者の処刑を清盛、義朝に強いた、信西の人倫に外れたことを強要する輩が権力を握っていた。
権力を握れば何でもできるという考え、これが日本の歴史なのである。
そんな遺伝子が現代にも脈々と伝わっている。
この様な狂気が朝廷内の権力争に於いてだけであれば、民草には何の痛痒もない。
だが、この様な狂気の持ち主が政を行えば、当然民草に降りかかってくる。
それは過去の歴史が物語っている。
これがただ過去の歴史の中の出来事だけとは言えないところが、恐ろしい。
茂みの小径を曲がると
茂みの小径が尽きて石塀のの角を曲がると、
目の前に突如と現れてのはオレンジ色の房花
塀に添ってのうぜんかずらが蔦を伸ばしていた。
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