徒然の書

思い付くままを徒然に

壬申の乱 その弐

この様な簒奪が起こるたびに、書き換えているとすると、正当な史書などと言う物は後世に伝えられるはずもない。
この壬申の乱の纏まった記述は日本書紀巻第二十八の壬申記を基にされたものがほとんどであるが、初期の中でもこの項目だけが異常に詳細に書かれているのは何か意図するところがあったと推測せざるを得ない。
これらは大海人とその子孫が書き残した歴史書の一部であってみれば、明らかに勝者の弁であり、敗れ去った者の弁など記されるはずもないし、また何れが正しい史実なのかも判別するのさえ難しい。
日本書紀に書かれた大海人の大王位簒奪の巧妙さは周到に計画されたものであろう。
頭を丸め、吉野に籠ったなどは大海人の一つのカモフラージュであり、大友が兵を起こしたとして、東征するなども大海人の単なる口実であったと言われている。
家康がこの事情を知っていたのか、全く同じように相手を武装蜂起させるように仕向ける狡猾さを見せているのは実に面白い。
 
この当時の大王位の譲位の慣習はどの様なものであったろうか。
記紀などを見ると、兄弟持ち回り、女帝の即位と皇子などへの譲位など一定した規則はなかったようである。
 
軍事的背景を持たない大王に対する臣下の行動はあまりあるものがある。
乙巳の変後、孝徳の許可もなく中大兄が勝手に倭の京に帰りたいと、大海人らを率いて飛鳥へ帰ったなどの不遜な性格も垣間見える。
この中大兄、大海人の兄弟はいずれも権力欲が異常に強かった様な気がする。
中大兄は大王位をさんっだつご数十年に亘って天智として君臨した。
その天智が子の大友に譲位することもできず、弟の大海人に簒奪されるのは因果は巡るというべきなのかもしれない。
子の大友に譲位したい天智にしてみれば、大海人の心を試す必要があったであろう。
天智と大海人の虚と実の駆け引きが実に面白く、日本書紀の天智記と天武記に書かれている。
大海人に対しての譲位の提言に対して大海人は次の様な巧妙な断りを述べている。
大友擁立構想への協力の要請に対しての断り
天智妃即ち女帝の即位と大友の執政として起用の提言。
己の出家の許諾要請及び武器のの返還等
を申し出て草々に大津宮を引き上げ吉野へ行って、戦の準備をするなど、実に陰険で姑息な性格の持ち主の様である。
大海人が吉野へ帰るとき、彼らを護衛し送り届けたものの中に、・・・・
虎に翼を付けて野に放てり―――虎に翼を付けて野に放ってしまったようなもの―――だと云ったものがいた。
よく知られた言葉の様である。
彼らは大海人の軍事行動を予測していたのであろう。
 
尤も天智自体優れた才の持ち主ともいえない凡庸な大王であったことも、多くの豪族連を味方に引き入れえなかったのが、簡単に変を誘発させた原因でもあろう。
これなどは秀吉の死後、家康が巧妙に他の大名連を味方に引き入れ、関ヶ原で勝利を収めたことと実によく似た経過をたどっている。
まさに歴史は繰り返す、を証明した様な両方の乱であった。
家康の巧妙な簒奪計画と同様、大海人の大王簒奪計画も天智存命の頃から周到に計画されたものであろう。
ただ、同じ権力を握った者であっても、大海人と、家康の違いはおおきい。
家康は己の簒奪を正当付けようとはしなかった。
征夷大将軍に任じられるや、反対に様々な法度を突き付けて、朝廷をいじめに掛かった。
そこに家康と言う男の傲慢と驕りが見えるのである。
まさに因果は巡ったというべきなのであろう。
壬申の乱の敗者は何も語らない、だが後世のものが過去の歴史を見る時、過去の記録即ち書紀やその他の書かれた勝者の弁の文字裏から真実を見つけ出せないものだろうか。
人間の心理を憶測するとき、陰険姑息な人間であってみればおのずとその言動を吟味することから真実が見つけ出せることがあるかもしれない。
とは言え、それは史料に裏付けされた真実と言う訳ではなく、単なる推理憶測の域を出るものではない。
 
 
 
参考文献
壬申の乱            遠山美都男著                  中公新書
日本書紀        宇治谷 孟訳                  講談社学術文庫
古事記            宇治谷 孟訳                  講談社学術文庫
 
 
 
 
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