おとぎ話に於ける古代史の世界
子供の頃によく読んだり話してもらった、おとぎ話の世界と古代史との関わりが何とも興味深い。
今までおとぎ話と言うのは民話などと同様、民俗学の範疇に入るものだと思っていた。
けれども、おとぎ話の一つ一つを古代の出来事に当てはめてみると、ぴったりと符合するものはとても多い。
子供の頃に知ったおとぎ話は、子供用にアレンジされた、勧善懲悪ものがほとんどであった。
平安時代に始まった物語文学も、公家衆の衰えと共に、段々と廃れて入ったが、それに代わる様に短編の物語風のものが創られ始めた。
江戸の頃にはその膨大な数の短編を取捨選択しながら、お伽草紙として売り出されたという。
お伽草紙などを読むと、子供の頃に見聞きした話とは随分と違うことに驚かされる。
昔々の出だしで始まるおとぎ話に出てくるのは、おじいさんとおばあさん。
そのおじいさんとおばあさんの処へ小さな子供がやってくる。
おとぎ話にはおじいさんとおばあさんで、お父さんやお母さんは出てこない。
それに元気溌剌の青年も出てくることはなく、出てくるのは小さな童に限られている。
子供の頃には如何しておじいさんとおばあさんばかりが出てくるのだろうと不思議に思って、聞いたこともある様な気がする。
人間生まれた瞬間と死ぬ瞬間が一番謎めいている。
生と死の境界線に近い、童と翁は無邪気、すなわち邪気がない。
生と死の境界線の外の世界は人間でないものの世界。
人間でないものと言うと神か鬼の世界。
この無邪気な者たちが人間以外のものに関わっていくのがおとぎ話の世界なのだという。
汚濁に満ちた世の中の真っただ中にいるものが、欲望をあらわに、関わった話の世界は凡そ悲劇に終わってしまう。
そしてこの小さな童が恐ろしい鬼を退治にゆく。
神も鬼も物。
子供向けにアレンジしたおとぎ話は勧善懲悪の教育的話として日本の多くの子供たちを魅了したことであろう。
さて、古代史と関わりのあるおとぎ話として、どれが一番面白いだろうといろいろ考えてみても、どれもそれなりに面白い意外性のある関わり方をしている。
これらはいずれも古代の歴史に関わっていると言われている。
本棚をひっくり返していたら出てきたのが、竹取物語。
竹取物語自体を書くとすれは他に書き様もあるが、今は古代史に関係する事を主にした。
そこには、「竹取の翁」を「物語の出で来はじめの祖」といい
絵は、巨勢相覧、手は、紀貫之書けり。と
ただこの竹取の翁と竹取物語と同一の物かどうかわわからない。
「 なよ竹の世々に古りにけること、をかしきふしもなけれど、かくや姫のこの世の濁りにも穢れず、はるかに思ひのぼれる契り高く、神代のことなめれば、あさはかなる女、目及ばぬならむかし」など書いている。
「なよ竹の代々に歳月を重ねたこと、特におもしろいことはないけれども、かぐや姫がこの世の濁りにも汚れず、遥かに気位も高く天に昇って行ったことは立派で、神代のことの様なので、思慮の浅い女には、きっと分らないでしょう」
という意味だろうか。
前回読んだときには気にも留めなかったが、この竹取物語と古代史のかかわりなど、どんな関わりがあるのだろうと思う。
「神代より世にあることを、記しおきけるななり。「日本紀」などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」とて、笑ひたまふ。
「神代から世の中にあることを、書き記したものだそうだ。「日本紀」などは、ほんの一面にしか過ぎません。物語にこそ道理にかなった詳細な事柄が書いてあるのでしょう」という意味だろうか・・・・・
などと軽く一蹴している。
今は昔、竹取の翁といふもの有りけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろずの事に使ひけり。名をば、さかきの造なむいいける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。
で始まる。
今は昔は今昔物語や宇治拾遺集などにもみられる慣用的な句の書き出しである。
この竹取と言うのは稲作農耕社会では身分の低い職業であったらしい。
貧しい老人の姿が彷彿と思い浮かぶが、竹も持つ強い生命力、竹の製品は神事に使われるなど、造は宮つ子であり、竹にまつわる様々な意味を考えると、若い頃は現代でいう公務員ではなかったろうか。
竹取物語の竹の意味するものは様々な意外性に満ちており、作者の頭の中は色んな構想が広がっていたのだろう。
竹や壺の空間はとても意味深いものがある。
だとすると、このかぐや姫もその交通手段を使って異界から人間の世界に来たのであろう。
この爺さんはこの子を見つけてから以後・・・
竹取の翁、竹を取るに、この子を見つけて後に竹を取るに、節を隔てて夜ごとに金ある竹をみつくる事かさなりぬ。
とたちまち大金持ちになってしまった。
この児を養うほどに、すくすくと大きになりまさる。三月ばかりになる程に、良きほどの人になりぬれば・・・・・帳のうちよりも出ださず、いつき養う。
この時間の経過がおとぎ話では重要な意味を持つ。
浦島太郎などにも見える、異界における時間の経過はおとぎ話におけるとても重要な要素である。
女の児は三月ほどすくすくと育ち美しい乙女になった。
美しい女とみると、すぐに自分のものにしたがるのは何時の世も同じと見えて、男どもが家の周りを徘徊するようになった。
多くの求婚者の中でも色事師の五人は何度断られようと諦める事はなかった。
この竹取物語の作者の能力や気質から見ても、単なる物語とも思えない描き方をしている。
登場する五人の人物は当時の実在の人物で、皇子。右大臣、大納言、中納言と社会的にも高い身分の者であった。
身分的に最上位を選んだ、この作者の優れた頭脳が生み出した苦心の人物なのであろう。
帝も最後に出登場するのは、作者の苦心であろう。
この物語の中でも最もかぐや姫に嫌われたのがこの庫持ちの皇子である。
かぐや姫には見抜かれていた様で、心にたばかりのある人などと言われて、蔑まれている。
自分では頭も切れると思っている自信過剰な人物であるが、どこか抜けたところのある人物の様である。
こやつが、いろいろと策謀を巡らし、七世紀以前の日本の歴史を抹殺してしまった張本人で、この竹取物語の中でも、卑怯で、したたかな策略のある人物として描かれている。
五人の求婚者に夫々難題を課すのだが、この庫持ちの皇子だけは根っから姑息な性格の持ち主とみえて、作り物を届けるのだが、職人たちの内部告発でウソがばれてしまう。
こんな輩が、政を牛耳るのだから、民草が虐げられるのは当たり前。
何時の世も虐げられ苦しめられるのは下層の人々で、姑息な奴がのさばるのが、人間の世界なのだろう。
かぐや姫を迎えにきた天人たちが汚れた世界の地上に足を付けない様に、宙に浮いているのは弥陀の来迎図にも似た描き方なのであろう。
天人が言うように、藤原一族などの支配する汚れた世界は長くいるところではないというのだろう。
いざ、かぐや姫汚きところにいかで久しくおはせむ
という天人の言う汚きところとは藤原の牛耳る世そのもの更には、人間の欲に満ちた世そのものを指していると言えるだろう。
この竹取物語が書かれた時期は藤原の最盛期で、その藤原を批判するのだから、当時としては命がけであったろう。
藤原の陰謀で没落した豪族は数知れぬ位いあったろう、とさえ言われている。
どれ程の者が葬り去られたか、豪族を始め世の民草の藤原に対する怨念は相当に深いものがあったろう。
この作者はこの物語を書くにあたって、読む人に様々に、夫々どの様に考えるか任せているような書き方をしており、作者のこの物語を書いた狙いなど単純な創作とは思えない。
作者は随所に読む人よ、あなたはどう思いますかと問いかける様な書き方をしている。
作者の頭脳の緻密さを随所に感じる作品と言える。
地上のあらゆる権威、権力、を否定的に眺めようとする作者の視線には人間の真実を追求しようとする気迫がこもっている。
藤原批判に徹している作品と言うのも頷けるような気がする。
この藤原は八世紀に手段を選ばず、貪欲に権力を手中にし政を壟断した独裁政治を行った。
多くの豪族、皇族を殺め、怨みを買い、その血を啜って、成長した一族である。
この竹取物語は様々なものを含んでおり、様々なものへ派生していく面白さがある。
日本のあちこちにある羽衣伝説、浦島太郎の異界での時間の経過、天女が現世で過ごし、人間性を併せ持つようになった経過など考えさせられることの実に多い作品と言えるのではなかろうか。
子供のころに読んだり聞いたりしたおとぎ話とは全く違った世界へいざなってくれる。
江戸の頃に編纂されたという、お伽草紙などを、時間のある時にゆっくりと読むのもまた心の糧にいいのかも知れない。
子供向けのおとぎ話とと大きな違いに驚くこと請け合いである。
その話の裏に潜む真意を自分なりに考えてみるのもまた必要なのかもしれない。
参考文献
おとぎ話に隠された
古代史の謎 関 祐二著 PHP文庫