徒然の書

思い付くままを徒然に

大化改新って何・・・・

そもそも大化改新の発端は推古の死に際の遺詔の曖昧さで、王位継承問題が紛糾することに端を発している。
加えて、蘇我蝦夷が父馬子ほどの切れ者でなかった事、継承者の一人山背皇子の性格が強引で、王位に固執しすぎる狷介な性格であったことも影響しているのだろう。
父の厩戸の様な徳がなかった。
蘇我蝦夷などと山背の関係も余りうまくいっていなかったことが発端となっている。
強烈に王位を主張する山背の性格はますます孤立感を深めていった。
飛鳥朝廷にとって、上宮家を排除しなければ何時までも、皇位の継承問題に形が付かない状態になってしまっていた。
結局蘇我氏によって山背一族が弑られて絶えてしまうのであるが、この山背が皇位についていたら、大化改新も在ったかどうか、・・・・・
あったとしても違った形であったかもしれない。
とにもかくにも乙巳の変が起こり、蘇我宗本家が滅亡して、皇極が帝位を譲って孝徳が帝位につき、大化改新の詔が発せられるのは乙巳の変の翌年になってから。
 
日本書紀にも書かれている様に、四か条からなり、私有地、私有民の廃止、地方行政組織の改革、戸籍、計帳、班田収授法の制定、新租税、など律令制度の根幹となる政策が、書き連ねられている。
日本書紀には次のように詔が発せられたと書かれている。
ただ後にも書くように、これは日本書紀の捏造であるというのが、我が国の専門家の一致した見解である。
 
1.昔の天皇たちが立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣、連、伴造、国造、村首の支配する部民、豪族の経営する各所の土地を廃止する。
2.都城を創設し、畿内国司、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置き、鈴契を造り地方の土地の区画を定める。
3.初めて戸籍、計帳、班田収授の法をつくる。
4.従来の賦役を廃止して、田の調を行う。
 
大化改新って、要は大王家が土地も民も直接支配したいという事、その規律を作ったという事。
 
最初に述べた様に民草も土地も、すべてを直接支配したい、すべて朝廷のものである、ということなのである。
即ち、律令制の徹底を目指したのは大王を絶対視する中央集権的国家であり、官制を統括し管理の任命権を持ち軍事や刑罰、更には外交や王位継承権を保持する事であった。
とは言っても、実際の律令政治において、大王が専制できるほどの力はなかった。
 
ただ、先にも書いたように、この詔は日本書紀による捏造であるとするのが多くの専門家の一致した見解の様である。
蘇我宗本家を葬り去ってから、精々半年、この様な時期にこの様な律令を発しても、諸所の豪族が納得するはずもない。
中継ぎの大王に過ぎない孝徳の朝廷には改新の詔を発し、それを納得させるだけの権力も権威も持っていない。
豪族から何もかにも取り上げて、朝廷がすべてを支配するなどと言っても、納得する豪族などいるはずもない。
 
規律を作るということは、権力者にとってとても都合の良いことなのである。
その他大勢を支配するにこれほど都合のいいものはない。
現に我が国の法律を思い浮かべているといい。
すべてが権力者に都合よくできている。
憲法にしてもアメリカの様に徹底していない。
法解釈によって、どの様にでもなるような作り方が為されている。
権力に阿るのが人間だとすれば、法解釈をするものが、果たして公正な判断をするかといえば必ずしもそのようにはならない。
権力者に有利な法解釈がなされることは目に見えている。
今までの判例を見ればおのずからはっきりとその姿が浮かび上がるだろう。
過失責任が原則であるにもかかわらず、無過失責任を問う規定を平然とつくる、それでも抵抗を試みない、日本人ってそうゆう民族なのである。
 
改新以前の即ち七世紀の蘇我氏に代わって、八世紀には藤原氏が現れ、蘇我氏よりもさらに強大な権力を持つようになってくる。
凡庸な孝徳などが頂点に立っても、官僚共が好みそうな、些細な事を、重箱の隅をつつくような布令を出し続けるのが関の山、・・・・・取るに足らないことを重大視して詔を発し続けている。
勅、詔は絶対的な力を以てはいたが、その内容自体は豪族などの決定したことを追認し、発布するだけのものでしかなかった。
豪族と言うか官僚と言うか、その中心勢力が七世紀の蘇我から、八世紀には藤原に変わっただけの事でしかない。
律令であれ何であれ規律を作るということは、支配者にとってこれほど容易に民草を支配する事が容易になるものはない。
大化改新や後の大宝律令にしても、近代における国法にしても、支配しやすいように作られている。
況して我が国の様な権利意識に目覚めていない民にとっては、支配者の言うがままの法でしかない。
憲法一つアメリカなどと比べても、天と地ほどの差がある。
 
規律を作るということは、権力者にとってとても都合の良いことなのである。
その他大勢を支配するにこれほど都合のいいものはない。
現に我が国の法律を思い浮かべているといい。
すべてが権力者に都合よくできている。
憲法にしてもアメリカの様に徹底していない。
法解釈によって、どの様にでもなるような作り方が為されている。
権力に阿るのが人間だとすれば、法解釈をするものが、果たして公正な判断をするかといえば必ずしもそのようにはならない。
今までの判例を見ればおのずからはっきりとその姿が浮かび上がるだろう。
権力者と争った裁判例はほとんどすべてが権力者に傾いた捌きである。
 
何か明治維新と同じような雰囲気が漂う。
と誰もが今まで思っていたのではないだろうか。
小学から高校あたりの、自己の考えも確立しない子供たちに、日本書紀に書かれた様な、天皇家に都合の良い事柄を日本の史記として、指導を強制し,間違った国史を官僚の意のままの指導要綱を教師に強制するのは、明治の官僚制をそのまま彷彿とさせるものである。
ただ偏に、日本書紀などの改変された史実を後生大事に日本の史記と考えている現今の官僚の頭は古代の官僚の域から一歩も進歩していないのだろう。
それに従った教師たちによって、そのように教え込まれた子供たちは、日本の古代歴史はその様なものだと思い込まされてきた。
それは将来に迫る軍事国家への変貌を見据えているのかも知れない。
皇国日本などは、戦前の民草が洗脳された概念なのだが、戦後の民を再び洗脳するための布石であるのかも知れない。
家永教科書が、古事記日本書紀天皇中心に作り替えられている、と書かれた部分が不適当とされて、削除を求められた。
記紀の記述が史実に沿わない部分が数多くあることは多くの研究者によって認められている。
にも拘らず、記紀の記述をそのまま学校教育の場に持ち込もうとする官僚によって家永著作の教科書が、教科書検定で否定されるのは当然の事であろう。
そして色んな事柄を含んだ家永裁判が、真実よりも官僚側の立場に立った裁判であったことを、憂うべき裁判であったことを教えてくれた。
多くの人々が、日本の古代史に於いて誤った教育を受けた可能性は十分に考えられる。
要は官僚共の考える事は、子供たちを洗脳して、戦前の様な皇国日本を作り上げたいなどと思っているのかも知れない。
 
中国や朝鮮半島の国では、紀元前何世紀も前から、様々な事が竹簡に記録されていたから、ある程度は信頼を得られるが、我が国の様に口伝では正確さに疑問が残る。
況して、記紀創作時の様に、大王家や豪族の指揮の基に明文化されるようでは如何様にも作り変える事が出来る。
豪族などの家記からの資料集めは大王家の官僚に依ることを考えると、大王家の都合の悪いものは総べて排除され、都合の良いところだけを抜き出し、後の都合の悪いものは総べて破棄されたと考えていい。
現在、天皇の陵墓はすべて宮内庁によって発掘は拒否され、認められていないが、これを認めると考古学的に、天皇家にとって不都合なものが出る可能性を憂慮して、調査発掘を禁じているのだろうと穿った考え方をしたくなる。
宮内庁などと言う役所の役人の度量の狭さ、頑迷さが、日本の古代史の研究、解明を阻んでいるといっていい。
天皇家をはじめ皇族たち、宮内庁の役人ども、すべては国民の税金で生きていることを考えると、正確な古代の国史を解明する義務があると考えるのは当然の事であろう。
政治屋共にしてみれば、今更古墳を発掘してみても、自分らには何の利益ももたらさない、と無関心を決め込んでいるから、何時まで経っても、我が国の古代の歴史は闇の中である。
乙巳の変の後、翌年に大化改新の詔が出たことになってはいるが、この詔事態後年になってから出たとする説もある。
いずれにしても、長い間大和盆地が朝廷の本拠であったが、この孝徳は何を思ったか、難波に遷都している。
この時代、難波は大いに利点も有ったが、外敵の攻めには防御が難しい地とされていた。
何故、即位して間もない時期に遷都する必要があったのか、知るすべはない。
それが証拠に、反目していた中大兄は飛鳥に遷都しようとするが、許されず、中大兄は皇極上皇、間人皇后や皇子を率いて、独断で飛鳥河辺行宮へ移っている。
多くの官僚共が従ったため孝徳はこれを恨んで、新たな宮を山崎に作ったという。
ここで、孝徳は詠を残している。
 
~鉗を付けて、私が大切に飼ってる馬は、厩から引き出しもせず、大切に飼っていたのに、どうして他人が、親しく見知る様になり連れ去ったのだろう。~
 
これは中大兄が間人皇后を連れ去ったことを言っているのだが、一説には中大兄と皇后は男女の仲になっていたとする説もあり、この歌の意味も理解できるような気がする。
しかも、間人皇后は中大兄の妹であり、近親相姦であったというのであるから始末が悪い。
 
遷都して、宮を作るのは、すべてが民草に負担をかけことになるのを考えると、理由もなく遷都するなどは頂点に立つ者のすることではない。
我が国の大王とは、譲位の度ごとに遷都して、民草を苦しめていた存在であった。
そのような下々に対する思い遣りの欠けた支配者であった。
遷都しようとしたが、造営するに適当な樹木がなかったために遷都をあきらめたという、呆けた大王もあったと日本書紀は書いている。
これでは、クーデターを起し、行政改革をした意味がない。
中大兄は着々と独裁を進めていたようであるが、それ程の能力を持ち合わせた男とも思えない。
それどころか、中大兄は先にも書いたように、百済に援軍を送り、白村江で唐に完膚なきまで叩きのめされ全滅している。
国を壊滅寸前にまで追い込む様な愚挙に出る、狂気無能の男であった。
 
 
 
参考文献
古代史の真相                  黒岩重吾        PHP文庫
古代史を解く九の謎      黒岩重吾        PHP文庫
大化改新の謎                  関 祐二著        PHP文庫
 
 
 
 
 
 
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