徒然の書

思い付くままを徒然に

秋の七草に思う暦の怪

 
花を撮っていると、秋の七草と言われる様な花々が、現代の梅雨のさなかに花を咲かせたり、花期が全く違ったりすることに遭遇することが多い。
季節感が全く違っていることに戸惑うことがよくある。
何故、花々に季節感のずれがあるのか、我が国の暦について見ていくのは実に興味深い。
二四節季などと言うものが使われ始めたのは何故なのか・・・・・
 
我が国の暦は古くから朝廷が司る専権事項であったらしい。
その暦は陰陽師たちによって作られていたが、不正確この上もなく、場所によっては日はおろか月までも違う杜撰なのものであったらしい。
これは朝廷に暦を統一させるだけの力がなく、天文観測を一つの任とする陰陽寮に属する者たちの能力不足すなわち無知無能集団であったことによる。
それ故、我が国では暦と季節感の違いが甚だしく、暦を基準に季節を判断することは全く不可能であったらしい。
 
古来中国では、陰陽五行思想に立脚する、天体の正確な観測に基ずく暦を授けるのは、観象授時として帝王の専権であったと言われ、我が国の朝廷はその専権事項だけをまねて、能力のない陰陽寮の作った暦を民に押し付けたことになる。
 
我が国の暦法は道真によって遣唐使が廃された寛平六年(八百九十四年)以来、中国の新しい天文知識の流入が途絶え、暦法の理論改革は全くなかった。
中国から新しい暦法が入ってきたとしても、無能な陰陽寮の官人には正確な暦を作るだけの能力はなかったろう。
 
暦法は朝廷の専権事項であったが、余りにも長い間使われて使用に耐えられなくなっていた。
だがそれ以後も、八六二年に作られた宣明歴が徳川の時代になって改暦されるまで八百数十年にわたって使われることになるのだが・・・・・。
 
天正十年ころには、信長が天文や暦に興味を示し始めた、・・・・・・・・・
信長は陰陽師などによる暦法を全く信用していなかったようで、陰陽寮の改革を目論んでいた節があるのは、実に興味深い。
 
この様ないい加減な暦を押し付けられても困るのは農民である。
農民の田植えや養蚕の開始時期など他人ごとではなく、直接己たちの生き死にに繋がってくる。
困り果てた人々は季節を示すための二十四節季なるものを暦に加えて、使い始めたのである。
この陰陽寮の存在が秀吉によって廃され、平安朝以来の宮廷の陰陽寮は完全にその実態を失うことなる。
宣明暦の京暦に代って様々な地方で地方歴すなわち民間歴が作られることになる。
大宮暦、三島暦、京暦、南都暦、伊勢暦など地方によっていくつもの暦があったと言う。
とは言っても、朝廷に秘されていた宣明暦が漏れたものをもとに作られるので、宣明暦には変わりがなかった。
地方によっては、まだまだあったのかも知れない。
このころの西洋暦は既に四年に一日の誤差まで正確なものが使われていたと言う。
とは言っても、すぐに西洋暦が使われたわけではなく、現在のグレゴリオ暦が我が国に登場するのは、明治五年まで待たなければならない。
その間、徳川の時代などは貞亨、宝暦、寛政、天保と四度の改暦が行われている。
明治五年一二月二三日を明治六年一月一日としたのが現在の暦である。
それまでは数多くの暦が登場するのである。
 
我が国の権力者の馬鹿さ加減がこんなところにも表れている。
我が国の権力者は今も昔も、如何やら権力を握ると、専権事項は何時までも、己の手に残して置きたい、姑息な考え方の人種であるらしい。
我が国はすべてが万事こんな国なのである。
 
こんなことを考えていると、現代の梅雨の時期に咲くキキョウを秋の七草に数えたのも頷ける様な気がする。
 
秋の七草のひとつで日本人にも馴染みの深い野草。
秋の七草とは言っても梅雨のさなかにはもう咲き始めている。
古来我が国の季節感は西洋歴が入って来るまでは全く当てにはならない。
夏の山野草であるが、何故か暑さに弱い様である。
とは言っても性は強い様で、挿し芽でも十分に増やすことが出来ると言う。
鉢植えに向く種のものを何株か植えると、結構楽しめるかも知れない。
 
 
 
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