徒然の書

思い付くままを徒然に

犯罪捜査過程における人権の問題

   ~女子高生殺害最高裁上告棄却~におもう。 
 
目撃者は当初、‘若い男を見た’と証言していたのに捜査が進むにつれて被告に特徴が一致するよう変遷していて、警察の情報などに影響された可能性があり、証言は信用できない。被告が取り調べで被害者の所持品の色などを言い当てたのも取調官が示唆や誘導をしたとみる余地があり、犯人とするには合理的な疑いが残る。
(これは女子高生殺害最高裁の判決についてネット上で書かれたものの一部から借用した。)
と言うのが判決理由の様である。
 
この頃、よくアメリカの犯罪ドラマを見る。
小説やドラマなどで見る犯罪の取り調べなどでみる、アメリカと日本の違いは警察、検察や更には司法制度の違いがあるとはいえ、根底にあるのは人権の尊重如何にある様な気がする。
日本の刑事ドラマとの大きな違いは人権を尊重するかしないかが、まず思い当たる。
次に、日本の小説やドラマではほとんど問題にすることもないのだが、アメリカのドラマを見ていると、令状の発給がアメリカは実に慎重であると言うことで、これはひいては人権の問題が絡むからである。
そして、冤罪やこのような無罪判決が出るとき、非難の対象になるのは警察や検察で、安易に令状を発給した裁判官が非難されることがのないのが、実に不思議である。
この事件にしても、単なる安易な目撃証言だけの状況証拠で、逮捕状が発給され、事実否認のまま起訴されたのであろう。
小説やドラマで裁判官に関わる表現はタブーなのだろうか?
 
そしてこの無罪判決自体真実を究明したと言うことではない、ということである。
真実がどうであったかには言及していないのである。
ただ証拠の杜撰さを指摘したに過ぎない。
だから、真実は如何であったのか闇の中である。
当時でさえ、この証言に固執し、証拠集めを怠った捜査に問題があり、今更新たな証拠を見つけ出すことが不可能であると言うなら、真実は永遠にわからないままになるであろう。
冤罪やこのような形の無罪判決の恐ろしさは、冤罪の汚名を着せられた者を犠牲にして、犯罪者を野放しにするということである。
これでは冤罪の汚名を着せられた者や家族は救われない。
今度の事でも、真実罪を犯した者は北叟笑んでいる事であろう。
これでは遺族は救われない。
因みに、冤罪まで行かなくても、誤認逮捕は冤罪に劣らず重大な人権侵害である。
誤認逮捕された当人はもとより、家族や一族郎党、一時的とはいえ社会的に抹殺されるのである。
逮捕状の請求や発給は安易であってはならない事、肝に銘じるべきである。
誤認であった場合どのような責任をとれるのか、・・・・それぞれ自問してみる必要があるだろう。
 
いつの日にか捜査における人権の問題を書けるといいなと思っている。