徒然の書

思い付くままを徒然に

人間の本性は悪なり

性悪説と言うと、荀氏の性悪説が引き合いに出されるが、彼の言う単に人間は弱い存在たと言うに過ぎない、という単純なものではない。
この世に存在する、あらゆる人間は何らかの自己規制が外れると、悪と言われる行為にまっしぐらに入り込む可能性を秘めている。
社会規範によって、課せられる苦痛を比較して、悪へ入り込むことを躊躇っているのが普通の人間なのである。
重大な悪と言われる、社会規範に抵触する行為を行う可能性は、あらゆる人間がもっており、全く無関係な人間はこの地球上にはぞんざいしない。
権力を握ったっものはその権力を利用し、キツネにならないものは皆無であろう。
あの権力を握ったと思われる人間どもの所作さを勘案すれば、思い当たるであろう。
ほんのわずかな権力であっても、それを押しつけようとする行為は日常茶飯事に起こっているのは誰もが経験したことだろう。
権力を利用して、受けるべき苦痛を回避する事の可能性を考慮しているに過ぎない。
処が、思惑が違って、社会規範の適用を強制されるものが時折表れているのは、周知のことだろう。
この様な人間は権力者には認められているなどと確信しているから一層の事始末が悪い。
悪を犯した報いが己に降りかからないとわかれば、あらゆる人間は悪の限りを尽くすだろう。
いわゆるアウトローの世界である。
あらゆる人間が、悪を行う存在であるから、刑法をはじめ、あらゆる社会規範が悪を行ったものを拘束する規定をするので、この拘束をすべて外すと、あらゆる人間が悪の限りをつくし、個人の生の力が支配する生の世界に突入する。
それを回避するために、社会規範が作られるのであるが、これは権力を握ったものの撮って最大の武器になり、弱者を蹂躙する武器にもなる。
これは人間が存在し始めた時から全く変化していない。
人間を拘束するタガが外れた時ありとあらゆる人間があくの本性をむきだdしにする。
生まれたての赤ん坊に悪も善もないと、言う意見もあるが、まだ己の意思を表現する方法を知らないだけで、悪は立派に存在する。
まだ善も悪も解らない赤ん坊でも、立派に悪を表現している。
親が近似した赤ん坊を差別して扱うと明らかに嫉妬心をむきだしにする。
己の意思を正確に伝えることのできない生まれたての赤ん坊でも、敵意をむき出しにする方法は知っているのである。