徒然の書

思い付くままを徒然に

天上の華、彼岸の華


彼岸と言うのは彼の世の事。
アケロン川日本でいえば三途の川を渡った、彼の地の事である。
暫く行くと地獄の門と言う巨大な門が見えてくる。
この門の上に書かれた言葉がある。
この言葉訳者によって全く違う。
そのうちの一つを記してみると・・・・
 
われをくぐりて、汝らは入る、嘆きの町に
われをくぐりて、汝らは入る、永劫の苦患に
われをくぐりて、汝らは入る、滅びの民に
  ~~中間略~~
一切の望みを棄てよ、汝ら、われをくぐるもの。
 
この最後の一行は実に恐ろしい。
この門のこの言葉を見たら、生きた人間なら怖気を揮って尻込みするだろう。
 
ダンテは聖なる喜劇では、地獄から天国まで一昼夜で経巡って来たとは言うが、今の我々にすれば彼岸と言うのは、遠い遠い遥か彼方想像もつかないところにあると思っているものが多いのだろう。
とは言ってもあの世とやらは在ると思えば在るし、ないと思えばない。
ダンテはどの様に思っていたのだろうか、・・・
一昼夜のヴァーチャルリアリティーを体験するのだが・・・・
この地獄地図を現世の悪人共に実感させる方が刑罰を与えるよりははるかに効果があるかもしれない。
生前悪さをしたものは地獄とやらで責め苦に合い、善を為したものは天国へとは言うが、この世の世界で善ばかりを為した者はどれ程居るのだろうか。
この狭い日本と言う国にあって、。悪に係わりのない人間などは一人として存在しないだろう。
日本と言う国の人間と言う生き物に限らずに、人間と名の付く生き物で、悪を為さぬものは有り得ようもない。
様々なとるに足りぬ小さな悪を為しながら、快楽を求めるもの、あるいは権力を以て義務無きことを人々に強いる大悪など、人間と言う生き物は様々な悪を行いながらこの世を渡っていく。
地球上の人間が殆ど地獄に落ちることになれば、地獄も人口過多で資源不足に陥るのではなかろうか。
地獄の番人ミノスも亡者の甘言に弄され落としどころを間違えなければいいが。
 


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地球上に人間らしきもの、猿人が現れたのが500万年ほど前。
現在の人間らしき姿になって漸く二万年程経った。
悠久の時をかけて、1800年代に漸く10億にったした。
ところがどうだ、それから三百年ほどで、今や地球上には70億を超す人間があふれかえっている。
これらが次々に、彼岸へと旅立てば、如何な彼岸とて溢れかえってしまう。
ヒガンバナを天上の花とも言うことがあるらしいが、このヒガンバナをゆっくり楽しむ事も出来なかろう。
精々今の内にこの世で彼岸の華を楽しんでおくがいい。
ダンテの頃は政治屋同士の争いで、この世は醜い姿を晒していたが、今の世、現代はその権力をいぎった政治屋ばかりが良い思いをし、世の役に立たなくなったと云っては、高齢者の年金を削除し、社会保険料と称して膨大な額を徴収する醜さ。
かってのフィレンツエ辺りでは市民を巻き込んで、教皇も皇帝もこの世での権力をめぐる醜い争いを繰り返し、地獄の最下層近くに放り込まれ呻いている。
政治屋同士の争いでさえも、神と言う輩は許さないというから、現代のように老い先短い民を平然と姨捨山へ捨て去ったり、病気の息子を抱えた母親とその息子が餓死するのを平然とただ眺めていた政治屋や官僚などはとても許されなかろう。
未来永劫、影が腐臭で悪臭を放つまで、地獄の底で苦しむことになるのだろう。
ダンテが描いた地獄地図でさえ彼の個人的な感情が入っているのだから、善悪を測る物差しは人によって随分と違ったものになるのであろう。
ダンテの生きた時代は市民を巻き込んだ権力争いが、苛烈を究め利非ず敗北した方の市民は何百人と追放されている。
混乱を極めた時代で、他人を怨むことも多かったとはいえ、ダンテの様な人間でさえ私的感情から地獄の深いところへ落ちることを望んだものは多数あった。
平和に慣れ過ぎたノンポリではあっても、怨み心を抱かないとは云いえなかろう。
この豊穣の時代に煎餅一枚で飢えをしのいだ親子の心情を思うと・・・・
どんな気持ちで、一日を過ごしていたのだろう。
神の正義が忌まわしい輩にどの様な罰を下すだろうか。
その時の地獄の底は今よりははるかに惨めで、凄惨の極みを観る様になるのであろう。
このダンテの聖なる喜劇はダンテの心の中にある地獄、煉獄、天国の模様なのである。
今の時代、心ある各人がそれぞれの地獄、煉獄、天国の姿を描いてみるのも一つの価値である。
ダンテが描いたように、今の時代の悪人が、どの様な地獄の責め苦を味わうのが、現代版聖なる喜劇をそれぞれが描いて、どの様な地獄地図ができあがるのか、描いてみるのも一つの価値であろう・・・・・
ダンテの聖なる喜劇をもとに、ボッティチェルリが描いた円錐形の地獄地図、現代ならどのような姿が似合うだろうか。
人間の犯す悪など凡そ同じようなものだろうが、彼の時代より数段悪知恵が発達した輩が多いから、意外と違った地獄地図ができあがるかもしれない。
それがどの様なものであれ、描いた人の価値観の表れで、価値観の違いによって、地獄地図も違ったものになって当然であろう。
間引かれた者達はその光景を楽しみに待つことになるのであろう。
ただこの聖なる喜劇の天国編はキリスト教礼賛が各所に現れ、キリスト教に拘らず、宗教と言うものにまったく興味がないゆえに、面白さが半減してしまった。
キリスト教などでいう神の存在や神に関する真理などわれには無用の哲学であるゆえに・・・・・
ただ言えることは、地獄も天国も頭の中の出来事で物を考える事の出来る生き物にしかないということである。
頭の中でどの様な地獄絵図を描こうと、全く束縛を受けない自由がある。
ダンテ・アリギエーリはローマ教皇さえ地獄の責め苦を味わわせている。
よほど教皇に恨みがあったのであろう。
生きている、人間と言う生き物の頭の中のバーチャルリアリティー
チンパンジーもゴリラも地獄の責め苦を味わうということはありえない。



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